こんにちは。身体障害者でーす。

 

 

さて。記事のネタとしては若干重めな感じですが…。

 

身体障害者の目線から少々考察してみたいと思いまーす。

 

 

なんでも、障害という言葉のルーツは、仏教用語の障碍(しょうがい)・障礙(しょうげ)だそうで、元は悟りの妨げとなる煩悩を意味する言葉なんだそうです。
 

太平洋戦争以前は不具者や片輪などの偏見用語で扱っていたそうですが、障害者という言い方や表記が用いられるきっかけとなったのは、1949年の身体障害者福祉法公布と1656年発出の同音漢字の書き換えにかかる基本的な方針によるもので、身体の機能や能力等に不十分さを有する人を障害者と表記することが定まったそうです。

 

現在では『障碍者』や『障がい者』という記載が見られますが、これは時代の流れと共に人権問題等の機運が高まり【害】という字が差別や偏見を生むと指摘される様になったためだそうです。

 

とはいえ、【害】と【碍】は結局意味が一緒だとか、【障がい者】はかえって障害を連想させるって意見もあれば、柔らかい印象で良いとか、賛否両論あるようです。

 

 

一般的に【障害者】の対義語で表されるのは【健常者】ですが、健常者は『常に健やかな者』という意味の呼称なので、対比されると肉体や精神に障害があって健やかではない様な印象を受けるよなーと個人的に思ったりもします。

 

で、自分が身体障害者になって感じる事はですね。

 

 

表現なんぞ、どぅーでもいい。

本気(マジ)で。

 

 

表現云々で身体の障害が良くなる訳でもないですしね。

 

っていうか、僕に言わせると世の中は表現に拘りすぎなんですよ。

 

性的マイノリティの表現も、昔はホモやレズなんて普通に言っていましたが、最近はLGBTが一般的です。

 

ですが、あくまで表現方法が変わっただけで、結局は未だに差別や偏見による問題は起きていますよね。

 

多様性の時代と言って世の中が認めている風潮はありますが、虚構に見えなくもないというのが僕の感想です。

 

最近の世の中は、表に出すと問題化して面倒だから、オブラートに包んで見えない様にしているだけ…僕にはそんな風にも見えます。

 

はい!ここでクイズ!!

 

〇んこ

 

〇に入る1文字はなーんだ?

 

これが世の中のオブラートです。

 

『う』でも『ち』でも『ま』でもモロに出したらマズいじゃないですか。

 

まあ、答えはあんこぱんこ(パン粉)なんですけどね!

 

 

なので表現を変える事よりも行動を変える事が重要じゃない?と思います。

 

偏見や差別を完全に無くすことは絶対に不可能だと思うんですよ。

 

だから、偏見や差別を持つ人ですら『これくらいはしょうがねーな』って思ってできるくらいの小さな共存行動を増やせる世の中にうまーく誘導できると、良い社会に変わっていくんじゃないかと。

 

CMで無意識の偏見に気付くことからなんてのを見かけますが、あれは逆に偏見を誘発してないか?と思うので論外です。はい。

 

 

トントントントン……キッチンで夕食の支度をする人がいます。

 

 

休日は夕食作ってたわ!

 

なんなら朝食と子供たちの弁当は俺が毎日作ってたわ!

 

食事を作るのが母親だけだと思うなよ!!

 

 

でも、こう感じる事がすでに偏見だったりするんですよね、きっと。

 

差別や偏見って社会的強者が社会的弱者を虐げるイメージですけど、社会的弱者が社会的強者に対しても少なからずありますからね。

 

結局、少しでも立場が違うと生まれるものなんですよね。

 

だから僕自身は障害者だってのを理由に差別されようが偏見持たれようが『あっそ』って感じです。

 

そもそも表現云々の話じゃないんですよ。

 

こうなっちまったもの、今更どうこう言っても言われても、どんなに世の中で表現が変わっても、障害は変わりませんしねえ。

 

こういう身体になって、1人じゃ家からも出れない、食事の準備もできない、風呂も入れない、排便もできないとないない尽くしで、お世話されないと生きていけないし、そりゃあ差別されてもしょうがないんじゃね?って個人的には思ってます。

 

僕の考え方が世捨て人みたいで極端なのかもしれませんが…。

 

いずれにせよ障害者は心身のどこかに問題を抱えた人を指すので、表現を変えるんであれば、その問題をポジティブに表現できて、その問題をプラスに変えられたらいいんじゃないですかね。

 

例えば僕の場合は、足はあるけど動かない棒みたいで、手首から先が不自由です。

 

思いつくのは…そうだなあ…。

 

 

 

 

ネオ・ジオングかな…。

 

 

ガンダムばっかりだな…俺…。