キーシンを聴くのはS席でこの辺り、とだいたいいつも同じ辺りの席を取るのだけど、今回は25年前(26年かも?定かではない)と同じ辺りの席で聴いた。
客席からキーシンの背中を見つめ、かつて見たキーシンの背中や、背中越しの手指の記憶が蘇る。
今のキーシンの背中はその頃より大きく、でも一時は恰幅良くなっていた体型はだいぶスリムに戻っていた。
受験や試験でもよく弾かれるそう。
当時は出だしの和音からベートーヴェンらしい響きを出すのが難しかったし、途中の左手もなかなかに難しい。
キーシンのベートーヴェンはドイツ的な響きで、厚みと迫り来る感じがドラマティック。
25年前の私はピアノを再開していなくて、キーシンのような音で弾けたらピアノをやめずに続けられたのになぁ…と諦めと憧れの眼差しでキーシンを見つめていた。
時が経ち、今はピアノを弾いている自分。
「キーシンがどうやってあの音を出しているのか、いずれわかるようになるよ!」と、ベートーヴェンを聴きながら、心の中であの頃の自分に教えてあげた。
出したい響きが出せない辛さでピアノをやめてしまったこと、やめていてもキーシンを聴きに行っていたこと、再開後の発表会でこの曲を弾いたこと、何十年経っても相変わらずキーシンが進化し続けていること、ずっと見てきたその演奏と自分のピアノ人生、今こうして素晴らしい演奏を共有させて頂いている奇跡。
何度か母と聴きに来たこともあったなぁと思い出したり。
色々と感慨深く、涙が溢れてきた。
ショパンの幻想曲は人気がある曲で、あまりにもよく弾かれるし数えきれないほど聴いているのに、「こうやって弾くのか…」と呆然。
スケール感が違う、そして鮮烈、濃厚。
言葉がなく、ため息しか出ない。
前半からブラボーの嵐。
凄いものを見て(聴いて)、もう胸がいっぱいで涙を拭っていたら、隣りの席の白髪のご婦人(母と同じ歳ぐらい)と目が合い、「はぁぁ〜素晴らしいですね

休憩中も興奮している方々の熱い会話があちこちで聴こえた。
後半のブラームスも良かった。
大人の音楽だった。
それにしてもプロコフィエフは、やはり血が騒ぐのだろうか。
それにしてもプロコフィエフは、やはり血が騒ぐのだろうか。
キーシンにはサントリーホールでさえも小さ過ぎるのでは…と思うぐらいのスケールの大きさ。宇宙規模。
もの凄いボリュームの低音。
ピアノってこんなに大きなスケールで演奏出来るのか…響きもオーケストラのようで、ボリュームもオーケストラのよう

キレッキレでノリノリの演奏に圧倒される

この曲に限らず、一曲一曲、命懸けで弾いているように感じた。
突き刺さるような音も、深い低音も、全神経を集中して、エネルギーを全て捧げて弾いている。
普段の自分の演奏など、「あなた寝てるの?」と言われそう。
持っているエネルギー量や、それを爆発させる瞬発力がもの凄い。超人的。
とはいえ、途中何回も右手の袖口を気にしていたり、"あ、ここもう1回弾くんだった!みたいに手のポジションを慌てて戻している瞬間もあり、やはり天才の考えていることはわからない

一度で良いから、3分ぐらいで良いから、キーシンが弾いている時の腕や手、脳の感覚を体験してみたい。
一体どうなっているのか。
小さい頃から常に世界を満足させる演奏を求められ、それに応えてきた天才の才能と計り知れない努力。
それを讃えるような割れるような拍手。
キーシンの演奏を聴くといつも、「この天才をみんなで守らなければ!」という気持ちになる

「聴かせてくれてありがとう!生まれてきてくれてありがとう!同じ時代に生きて生演奏を聴く事が出来て本当に幸せ!ありがとう!」という気持ちでいっぱい。
アンコールのショパンマズルカOp.67-4は、キーシンのように弾きたいと思って練習した曲。
生で聴かせてもらえて、感無量。美しかった。
満席の客席には若い方も、お年を召した方もいた。
お隣りのご婦人も、反対隣りの老紳士も、私と同じようにずっとキーシンを聴き続けているのだろうか。
25年前とほぼ同じ席で、25年前の自分と聴いたキーシン。
良い時間だった。
今回も、ありがとう。