師匠のブログに掲載された、レフ・ナウモフ先生のレッスンを拝見した。
http://s.ameblo.jp/chipmop1021/entry-12056380120.html

ナウモフ先生のレッスンはさぞかし響きに拘ったレッスンだろうと一瞬期待を抱いたけれど、やはりそうでは無かった。
教科書どおりのレッスンのよう。
普段、師匠に受けているレッスンの方が、何倍も響きに拘ったものに思える。
とはいえ、これは貴重な録画で、入りたかった部屋へ潜入出来た喜びはある。

マスタークラスのようなレッスンと、弟子入りして受けるレッスンというのは、全く別のものなのだろう。
響きに拘る方でも、姿勢やフォームを1から教えていては、マスタークラスの時間内にレッスンを終える事など出来ないので、根本的な響きの問題についてある程度省いてレッスンするとなると、必然的に楽譜に忠実に、書かれている事を分析して読み解いていくレッスンになるのだろうと思う。

奏法の流派とは響きの流派でもあり、それは音楽に対する哲学に直結する。
瞬時に伝授出来るものでもなければ、俄かに習得出来るものでもない。
徒弟制度のように、親方の下で学ぶ職人のように、その思想を学び、音楽や演奏に対する概念を知り、技を目で(耳で)盗んで極めていく。
出来た!と思っても必ずその先があり、時間と根気が必要な道。
その道を信念を持って歩んでいく者にしか得られない秘技もある。

ナウモフ門下のピアニストの演奏を聴くと、如何に一音に拘ったレッスンを受けてきたかがよくわかる。
細心の注意を払って紡ぎ出される響き。
マスタークラスと、弟子に対するレッスンとでは、内容が違う事は明らかで、響きの個性はあるにしても(そこがこの流派の魅力でもあるけれど)弟子には確実にネイガウスから受け継がれた哲学と響きが伝承されている。

マスタークラスを受けて、その先生の響きを上辺だけ真似ても、届かない。
そこに受け継がれている哲学を知り、共感し、追い求める事で、その響きを得る事が出来るのだろう。
響きを手に入れる事、ピアニズムを習得する事は、生涯をかけてその哲学を学ぶ事なのだと思う。
その道に、決して近道はない。