「ロシア奏法を学ぶ教室」というと、ソ連時代の政治に傾倒している人の集まりだと思う方もいるかもしれない。

ところが私の知る限り、教室に通う方々の中には、まず政治的にソ連時代のそれに特別傾倒していて、だからピアノもロシア奏法で…という「政治→ピアノ」の方向でこの奏法を学びに来る方は見当たらない。
勿論、ショパンのピアニズムが守られてきた事を考える時、政治的な背景を除いては語れず、そういう意味で芸術に影響を与えた政治に興味を持つ方もいるとは思う。
けれど「ロシア奏法」という言葉から感じられるイデオロギーが教室に漂っているわけではなく、中には日本の皇室ファンの方もいたり。

多くの方が、この奏法で紡ぎ出される美しい倍音、弱音でこそ一層引き立つ倍音の魅力に惹きつけられて来ている。
好きなピアニストの響きを追いかけて、この奏法に辿り着いた方が多い。

手や腕を傷めて、或いは技術的に行き詰まって、この奏法に辿り着いた方もいる。
身体に負担が少なく無理のないフォームで、手や腕を傷める事なく技術的にも道が開ける。

好きなピアニストの響きを追いかけて師匠のところやメソッドに辿り着いた方、手を傷めたり技術的に行き詰まって辿り着いた方、何れにしても、ピアノを演奏するにあたり何かを求めた結果、この奏法に辿り着いている。
"ロシアだから"学んでいるのではなく、追い求めたら"ロシアだった"、ということ。

私も含め、ここに集まる人々は、表情豊かな倍音に魅せられ、色彩溢れる響きに引き寄せられて来た人達。
自由なイデオロギーを持ちつつ、極上の響きを追い求めている。