忌部氏考 | ★総本宮★ HEX大社
2012-06-16 14:42:41

忌部氏考

テーマ:古代ミステリー
■ 忌部サミット開催

2006年徳島において第1回全国忌部サミットが行われ、全国の忌部氏の子孫600人が集まり、徳島県知事・後藤田正純議員も参加した

忌部サミットの講演によると忌部一族の特徴には、
開拓者精神(フロンティアスピリット)がある=全国展開と殖産興業を担う
団結力の強さ=現在でも忌部のイベントでたくさん人が集まる

こんな特徴があるのではないかという。
これらの精神を生かして、独自の地域興しができればということである。

忌部氏といえばであり、非常に縁が深い
一部には大麻(マリファナ)擁護者が、意識改革の始まりと捕らえ気勢を上げた


■ 忌部氏とは

忌部氏(いんべし)とは、大和時代から奈良時代(4世紀~8世紀)にかけて神事などに従事した氏族的職業集団である
玉など祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた氏族である
中臣氏(後の藤原氏)と勢力を争ったが、古墳時代の終わりと共に勢力が衰え、没落した氏族である
中臣氏が「政」を担当したのに対して、忌部氏が「祭」を担当していたとも言われ、中国型中央集権精度が強くなるにつれ「祭」の影響力が低下して没落したとも言われる

803年には、「斎部」と改名している
伊部(いんべ)、井辺(いんべ)、員弁(いなべ)とも記し、氏族名や地名になっている

中央の忌部氏に九州・紀伊半島・四国・房総半島などに勢力をもった地方の忌部氏が仕えたとされる
地方の忌部氏としては、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波国の阿波忌部氏が最も活躍した

次いで讃岐忌部氏、紀伊忌部氏、出雲忌部氏(玉作氏)、筑紫忌部氏 などが有名で、職能集団として各地を飛び回っている

特に、関東では阿波忌部氏と出雲忌部氏(玉作氏)の痕跡が見える

また織田氏、三木氏も忌部氏の末裔とされている

伊部臣が勧請して建立した、福井の劔神社の神官家から別れでたが織田家とされており、後に織田信長が出る
カミソリ後藤田と呼ばれた警察官僚出身の後藤田正春副総理、甥の後藤田正純議員も忌部氏の末裔とされる
後藤田正純議員は、女優の水野真紀との挙式を忌部神社で挙げている

阿波忌部氏は、一説に国土開発の任をもって阿波に赴任した氏族だといい、阿波(徳島)に豊富に自生する麻に目をつけ栽培したとされる
忌部氏は国家の祭祀を担当してきた氏族で、その職責にともなって神前にささげる幣をつくっていた。
この幣の原料として麻が使用されていたため、その原料確保がひとつの職責であったわけである。

阿波の地名、麻植郡や大麻となって残っており、特に「麻植」は、阿波忌部氏と非常に縁が深い地名である

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式内社 阿波國麻殖郡 忌部神社(名神大社、旧國幣中社)

天日鷲命(天太玉命)は、天照大神を天岩戸から誘い出す神話の「鷲」に由来する神であるが、前述の麻から造った幣(つまり和紙)の象徴ともされる
紙の祖神として徳島県麻殖郡山川町高越山に高越神社としてまつられている。

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高越神社  鳥居は、日吉大社や日枝神社で有名な山王鳥居である


■ 忌部氏の北上・拡散


忌部氏は各地に痕跡が見えるが、阿波忌部氏が関東開発の命をうけて、四国阿波の国から関東に上陸したと伝えられている


平安時代の神道資料『古語拾遺』には、次のような伝承が記載されている。
阿波忌部の一部が東国に移住し、彼らの居住したところを阿波から分かれたということで「安房(あわ)郡」と名付けたという。
現千葉県の房総半島南部は、8世紀以後「安房(あわ)の国」とよばれる


パワースポットとしても知られる「安房神社」(千葉県館山市)は、忌部氏祖・天太玉命を祀っている。

ここの社伝は次のように伝える。
「もと四国にいた阿波忌部氏が、天富命に率いられて東国へ大移動し、まずこの土地へ入植した。
 彼らは養蚕などの技術をもたらし、さらにここから関東内地へ拡散した」
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 安房神社


実際、忌部氏縁の阿波、紀伊、伊豆、安房には、奇妙な地名の共通点がある。

以下がその対比表である

特に那賀や勝浦という地名はこれらの地にしかない
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阿波忌部氏が黒潮に乗って移動した証拠とも言われる
確かに、大勢の人が、機材・資材など荷物を伴って移動するには、船による輸送しかなく理にかなっているように思う


また、讃岐忌部氏は、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖神とする
紀伊忌部氏は,彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖神とする
両神は、日本書紀・古語拾遺において並列に記される



千葉県南房総市丸山町に莫越山(なこしやま)神社が沓見と宮下にあり、 両社とも祭神は手置帆負命・彦狭知命である。
沓見「莫越山神社」由緒によると、「神武天皇元年、天富命が忌部の諸氏を率いて東土の開拓に安房の国に来臨し、東方の開拓をなされた時に随神として来られ、工匠の職に奉仕した天小民命・御道命が、その祖神である手置帆負命彦狭知命を当社に祀り、祖先崇敬を示されたことに始まる。手置帆負命・彦狭知命は、天太玉命に従って宮殿家屋機械器具の類をつくりはじめた神で、工匠の祖神であった。」とある

南房総には、讃岐忌部氏紀伊忌部氏もやって来ていた事が明白である

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忌部神社(香川県三豊市)讃岐忌部氏の創祀


関東の天日鷲命(天太玉命)としては、茨城・栃木県境にある鷲子山上神社として鎮座しているのが有名である。
阿波忌部氏が関東に上陸し、その拠点としてここに天日鷲命をおまつりしたという由緒をもっている。

天日鷲命は東京の下町ににも鷲(おおとり)神社としてまつられている
台東区千束三丁目に鎮座する鷲神社である

山梨県市川大門町の弓削神社の摂社、白紙社にも天日鷲命は祀られている


更に拡散した証明として大桑神社(茨城県結城市)がある
社伝は次のようにいう。
四国阿波の忌部氏が、東国へ入植してこの地に至り、養蚕・織物を広めてワクムスビ命をここに祀った。それにちなんで当地は大桑郷と名づけられ、また蚕守(こもり)とも称された」

養蚕業では桑を栽培して、蚕の餌とする。桑と蚕は、密接な関係にある
徳島では桑の付く地名や姓が目立つ
桑内、桑ノ内、桑峰、桑原.....である


■ 忌部氏と秦氏

忌部氏と並んで秦氏も養蚕で知られ技術を独占していたとも言われる
徳島(阿波)は、現在でも秦姓が集中する地域が点在する
そうした中に、磐境神明神社がある。

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アーク伝説の剣山山頂から15km北西にあり、神社とはいっても祭壇だけで「記紀」にある磐境(いわさか)と呼ばれている
積石の祭祀遺跡で、高さ1・2mほどの長方形の石垣で囲まれている。
石堤内に入ると奥の石堤の前に祈壇が設けられ、その上に木製の小祠が五座配置されている

2005年11月15日と2007年01月10日、(現在は元)駐日イスラエル大使エンリ・コーヘン氏が徳島を訪問している。

著書には、日本とユダヤの文明の類似性について論じた、2006年出版の「大使が書いた日本人とユダヤ人」がある。

駐日イスラエル大使エンリ・コーヘン氏はここを訪れ、神主らの話を聞きながら、遺跡や岩に刻まれた文様をじっくりと見てまわったという。

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大使は社殿を囲む石積みを見た感想を、こう述べた。

「ピラミッドなど、きれいに加工した石を積み上げるのが普通。
 自然の石を積み上げた祭壇は、ユダヤ教の神殿とこの神社以外で見られない」

「どこかこの近くにアークがあるはずだ...」と。

この自然石の祭壇を造営の役目を担った人々の末裔といわれる山間の集落では、囲炉裏に毎日薪を継ぎ足して火を絶やさない習慣があるという
これは、旧約聖書に記された信仰に一致するとも....

また、讃岐忌部氏にまつわる神社は香川に多数あるが、いずれも中西部に集中しており、その中に金比羅宮もある

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金比羅宮は、日本の中世に非常な信仰を集め、人気を呼んだ神社であるが、元々「旗宮秦宮」と呼ばれていた
明らかに秦氏縁の神社である
これもまた、エリアが被る


天養が一致すれば、忌部氏と秦氏は同系集団と言えるかも知れないが.....
しかしながら、現段階では前者が3世紀頃からの華中系四眠種に対して、後者は5世紀頃からの華北-楽浪系三眠種といわれている
後者のほうが、細くてつやのある絹糸がとれ、前者は「弥生絹」というが絶滅したといわれている

とすれば、忌部氏(玉作氏)は、中国南部~ベトナム地域からの渡来民で、越族系(弥生人)の可能性が高くなる
呉や越と呼ばれる地域である。
言わずもがな、日本では和服を「呉服」という


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紀元前4世紀末の東アジア

中国北西部に秦氏の本隊と言われる月氏が見える。
当初、月氏は匈奴を支配下においていたが、やがて力をつけた匈奴に逆襲され、次第に西に移動する

南東部には問題のが見る。百越とも呼ばれ幾つもの民族に分類される
呉と戦いやがて滅ぼしたが、「呉越同舟」という言葉の元になった
紀元前770年~秦が中国統一する紀元前3世紀までを春秋戦国時代といい、戦乱が激しくなると越人が海洋から大量に流出。
海流に乗って日本にたどり着いたものと思われる
また、秦が中国を統一してからも政変が起こるたびに、南部の越などの地域から日本へ、北部からは朝鮮半島へ流出が起こっている

日本の南方からの弥生文化の深耕、稲作技術・天養技術などを持った弥生人の展開と時期的には重なる

また、出雲は南方系から渡来した海神族の根拠地で高い技術力と勢力を有していたことが判っている
これら南方系渡来民族は、初め九州出雲に多く渡来し、2世紀頃に畿内に移動し玉作部(玉造)として組織されたようである
九州を中心に分布した阿曇氏などは有名である

邪馬台国時代の日本には、中華系文明に似た小国家が幾つもあり刺青をしていたと「魏志倭人伝」にある

越族刺青の風習があり、瀬戸内海から出土する遺跡では、顔に刺青ある人々が分布していたこともわかっている。

「宗像」とは胸に刺青があることからつけられた名前だとされ、阿曇族も刺青をしていたことが日本書紀の記述から伺われるが、刺青文化は原倭人、江南人の風俗である。

また3世紀頃の日本を綴った「魏志倭人伝」には「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とある。
黥面とは、顔への刺青であり、文身とは体への刺青である
当時の日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたということである


「新唐書」「東夷伝・日本伝」には、
「其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二世皆以尊為號居筑紫城」という記述がある。

阿毎」(あめ)を名乗る王の、初めての名は「天(あま)御中主」だったとする。

「あは(阿波)」、「あま(海人)」、「あめ(天皇・大王)」、「いむ(忌部)」などはいずれも天=海=あめ・あま から派生した語と考えられている
あわじ=淡路、おうみ=近江、かが=加賀なども同列である

また、海部(あまべ)天=海=あめ・あま から派生した語であり、阿波徳島から東に地名として残っていることは既にのべた。
阿波南部の荒野を開拓した海部氏の先祖を中心として、中世には海部武士団が成立していた

元伊勢籠神社の宮司家海部氏は、特に有名で天皇家よりも古い家柄と言われている
海部氏と出雲の海神(海人)族は非常に縁が深いと見られている

津守氏・尾張氏・海部氏・伊福部氏・掃部氏などは、天火明命を祖とする海人族であり、同系統と思われる

四国などにも越族系と思われる南方系海人(海神)族が展開しており、忌部氏に転化した可能性が特に強いことは明白である


日本書紀の国産みの順は、外から支配民族が流入した順番ではないかとよく言われる
比較的制覇しやすい、淡路にまず拠点を構え、四国=阿波に勢力を広げたと思われ、やがて九州に流入した形跡がある

畿内にも進出しようとしたが、強勢な機内勢力に阻まれ失敗したのではないかと言われるのが、蛭子(えびす・ひるこ)の件である
蛭子は、国産みの際、イザナギ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神だが、イザナミ(伊耶那美命)が先に声をかけた為、産み損なった子であり足腰が立たず、葦の船に乗せて流されたとされる。
西宮に流れ着き、戎(えびす)として祀られる神である
関西では十日戎、「商売繁盛笹もってこい」で有名な神である

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