明の滅亡の際江戸幕府に援軍要請があった

   中国王朝の変遷の歴史を興味深く見ているが明王朝の没落時に攻め滅ぼしたのは清王朝である。中国大陸は多民族国家だが一番多いのは漢民族で、明王朝は漢民族で滅ぼしたのは満州族でいわゆる騎馬民族系の少数民族である。詳細を知る由もないがこの間NHKで明滅亡時、明から徳川幕府に援軍要請があったことを知らされた。番組では日本の歴史学者がその際の日本の対応について様々論じていた。当時の江戸幕府は家光で、時代背景としては島原の乱が平定された時期て、幕府の政策としてキリシタン禁制を厳しく、ポルトガル船の来航に対しせん滅したような時期で、ポルトガルの来襲に神経をとがらせていたようなだったことを知った

 援軍を要請した明の将は、ということで当時の明の情勢を紐解くと、明という国家は末期状態で、支配していた女真族をまとめ上げ、清として独立した新国家が明を圧倒し、すでに北京など首都を占領し、明の一部勢力が南明として、命脈を保ち江戸幕府に再三支援を訴えてきた模様である。時の将軍家光は清の勃興もよく理解していて、援軍する価値の無いことからその辺の事情を知らない諸国大名の牢人対策として要請にこたえるべきというような意見もあったが、対ポルトガル戦への備えなどから、要請にこたえることなく、その書状の不備などを指摘して無視していたようである。歴史学者も家光の判断について様々解釈しているが、当時の明の情勢に関しての無知がはなはだしく、日本の国情にのみの状況からの判断ばかりで、歴史学者と言ってもそれほどの所見の無さにがっかりしたものであります。そもそも約百年前に秀吉が朝鮮出兵し明とは直接対決して、明の衰退の一因を作ったのは日本の侵略で、強大だった明が対外戦争により弱体化している。家光が何よりも大事にしていたのは国家安康で、できるだけ内治に力を尽くすそれが主眼だった故、要請の文言の不備を捉え、先延ばしにしていたものと思われる。もし家光が秀吉同様の考えがあれば、理由を付けて海外派兵を志向したかもしれないが、秀吉は失敗し、それがために豊臣政権の短命のみなもとが明かで、同じ愚を繰り返さない家光の処置は当然と思う次第であります。