令和6年10月27日、第50回衆議院議員総選挙投票日です。ワタクシ個人的には、今まで生きてきた中で、一番悩む選挙となりました。それでも! いや、だからこそ!

 

投票には行きます。

 

 

●縦の糸と、横の糸と、

 

僕らは、

 

人とも、世の中とも、

 

無関係ではいられない。

 

 

愛されたか、そうでないかは別として、

 

皆に必ず父母がいる。

 

祖父母がいて、曾祖父母がいる。

 

 

愛せるか、そうでないかは別として、

 

多くの人に子供がいる。

 

孫がいて、曾孫がいる。

 

 

彼ら、彼女ら、そして他でもない僕らは、

 

昨日の日本、あるいはどこか外つ国で生まれ育ち、

 

明日の日本、あるいはどこか外つ国を生きていく。

 

 

僕と僕の知る人、

 

日本と日本を取り巻く世界、

 

その真実と虚偽、善悪美醜を、

 

人に決めさせて良いものか。

 

人に任せてしまって良いものか。

 

 

●絆(きずな)と、柵(しがらみ)と、

 

家庭に約束があり、

 

地域に決まり事があって、

 

学校であれ会社であれ、人の集うところにルールが、

 

自治体には条例、国には法律がある。

 

 

その全てが、

 

僕を助け、あるいは削り、

 

僕の知る人を救い、あるいは傷つける。

 

 

その全てと、

 

関わりなく生きているつもりでいても、

 

その実、枠にはめられ、柵に囲まれてもいる。

 

まず、そこに気付くところから、なのだ。

 

 

●共通の言葉を

 

新聞と、テレビ・ラジオが主たる情報源だった昭和の時代なら、

 

その適否はともかくとして、皆、ほぼ共通の事実認識があった。

 

意見を違えるとしても、対話すること自体は、まあ、できた。

 

 

けれど、平成、令和と時を経た今日、

 

人は皆、個別の情報源を持ち、

 

対話の前提たる共通の知識・認識が圧倒的に不足している。

 

 

なのに、昭和を知る者達は、

 

自分が知っていることは相手も知っている前提で話をする。

 

そして、些細な行き違いも我慢できず、

 

本来、侃々諤々を楽しむべき政治談義においてさえ、

 

互いに、シンパだアンチだと決めつけ、

 

信者だ裏切り者だと罵倒する。

 

 

そんなオヤジ(たまにオフクロ)達の生態を見て、

 

若者達は、政治を忌避するのだろう。

 

本当は関心があるのに、無関心を擬態するのだろう。

 

動画サイトのチャット欄など、

 

路傍で酔っ払いが喚き散らしているのと大差ない。

 

そりゃ、遠巻きに眺めるか、避けて通り過ぎるというものだ。

 

 

若い世代の政治離れを嘆く前に、

 

自分達こそが、彼等を遠ざけているのではないかと疑え。

 

不特定多数が見聞きする以上、SNSも公の空間なのだ。

 

 

興味を持って近づいてはみたものの、

 

そこで触れるのが、強過ぎる主張、キツイ言い回し、

 

あるいは、誹謗中傷、罵詈雑言というのでは、

 

長居してくれるはずもない。

 

 

「政治とカネ」も、統一教会とのつながりも、

 

僕らの(そして、もちろんアナタの)日々の暮らしには、ほとんど関係がない。

 

なのに、何の思惑か、それらを針小棒大に煽り続けるメディア、

 

それによって立ち現れる幻想の世論を、現実の輿論と信じて乗っかる政治家、

 

両者ともに、その罪は重い。

 

 

此度の自民党総裁選から衆議院総選挙まで、

 

昭和の残滓にすがる昔若者だった人の多く、

 

既存のメディア、既存の政党、何なら既存の保守枠、

 

皆、大いに反省すべきだろう。

 

 

●それは絶望? それとも希望?

 

マクロの経済成長なんてしないのが当たり前、

 

「失われた30年」に育った世代。

 

彼らだって、その多くが、

 

 

互いにマスクで顔を隠したり・・・

 

自ら望んだわけでもないのにワクチンを接種させられたり・・・

 

そんなことよりも、

 

 

当たり前に恋をして、

 

縁があれば結婚して、新しい命を授かって、

 

父や母の背中を追って、あるいは反面教師として、

 

自分を生きていきたいと願っている、と思う。

 

 

子育てしながらも良いけれど、

 

子育てを終えてから働き始めても遅くない、

 

そういう道が示されるのなら、

 

晩婚化・少子化マインドも、おそらく反転する。

 

 

10月26日夜、

 

「最後のお願い」に声を枯らす人達と、

 

思い思いの仮装に身を包んで談笑する人達、

 

そのコントラストが切なく、

 

けれど、それで良いかとも思った。

 

 

ハロウィンを楽しんでいるからといって、

 

彼ら全てが「今時の若者」とは限らない。

 

翌日にはしっかり投票所に行くかもしれなし、

 

既に期日前投票を済ませているかもしれないのだから。

 

 

●ともあれ・・・

 

ぶっちゃけ、石破自民党がどこまで敗けるか、みたいな状況です。

 

それは、たぶん、投票率がどこまで伸びるか、とイコールだという側面があって。

 

 

 衆院選の投開票を27日に控え、各党は投票率の動向を注視している。期日前投票の伸び悩みなどで、50%台が続く直近4回と同様、低水準にとどまるとの見方が強い。自民党にとっては、派閥裏金事件の逆風を受ける中、投票率の上昇は不利に働きそうだ。

 

 

 

ちなみにこちら、前回、平成3年(2021)の各党得票数。毎度のことですが、無効・白票、棄権を含めてグラフにしています。

 

 

 

数字はこちらから。

 

 

 

このグレーの部分に「あるいは、そうであったかもしれない」という無限の可能性があるのです。

 

 

これは、ある立候補者の言葉。

 

大雑把に言って、10人のうち5人が投票に行かない。そのせい(おかげ)で、2人、もしくは3人が自民党・公明党に入れるだけで、その政権が長く続いてきた。その結果が、今日の日本なんだ。

 

そう。つまり、そういうことなんです。

 

 

もちろん、今の日本を、それで良しとする考えだってあるわけですが・・・

 

もしそうではなく、不満なり文句なりがあるのなら、

 

 

人も党も自分で決めて良い。

 

アナタも投票に行きましょう。

 

 

🍥🍥🍥 🍥🍥🍥 🍥🍥🍥 🍥🍥🍥 🍥🍥🍥 🍥🍥🍥 🍥🍥🍥

 

 

今の気持ち的に、ビビビと来たので、つい買ってしまいました。

 

 

「民主主義が危機に瀕している」といわれて久しい。11月に大統領選を控える米国では、選挙結果次第で「内戦」の再来が懸念されている。欧州では右派ポピュリズムが台頭し、世界では権威主義化する民主主義国も増えている。さらに、インターネットやSNS、そして、AIの爆発的な普及により、世の中には情報が溢れ、社会はより複雑化している。民主主義が様々な「脅威」に晒されている今、民主主義をどう守り、改革していくのか。その方向性を提示する。

 

 

 

こちら、その中にある記事の結びです。

 

 

Q7 民主主義を守り、改革していくため、私たちはどのようなことを実践していくべきでしょうか?

 

市原 ミクロな例ですが、日本社会には、「校則」のようなものが多すぎるので、そこから解き放たれることが必要だと思います。

 

 日本社会は、ルールの中にマナーが組み込まれ、行動範囲を自分たちで狭めているという例が少なくありません。学校の校則を見ると、「スカートの丈はひざ下まで」「髪の毛はツーブロック禁止」など、幅広く「あれはしていけない」「これをしてはいけない」と規定されています。実際には、スカートの丈や髪の毛がどうであれ、他人に危害が及ぶわけではありません。本来は、最低限やってはいけないことを決めたルールを作るべきなのに、制約が多すぎるせいで、その枠の中でだけ行動すればいいという発想になりがちです。

 

 こうした制約から解き放たれていくと、「自分が何をしたいのか」「何をすべきなのか」を自ら定義づけようという行動が生まれていくと思います。民主主義の実践としては、常日頃からこうした行動をとることが必要です。

 

 一市民がいきなり政治の世界に飛び込むことはハードルが高いと思います。ですから、職場における上司・部下の関係や、学校や部活動における先生と生徒の関係においても、それまでのやり方にとらわれず、自分が正しいと思うことを提案したり、改善したり、説得するといった小さなことから始めてみることが必要だと思います。そのトレーニングの積み重ねこそが民主主義の実践に他なりません。まずは、勇気を持ってできることから始めてみませんか。

 

 

 

 

「政治は難しいのだ」と言った人がいる由ですが・・・

 

「民主主義は面倒くさいのだ」です。

 

 

 

 

 

今時の若者と、かつての若者に捧ぐ。

 

政治は面倒くさい。だからこそ、真正面からぶつかれば楽しめる・・・かもしれない。楽しもう。

 

 

 

 

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自分で決めて良い。

 

それは、いっそ直感でも良い、の意味。

 

 

確かに、スポンサーの意向を忖度する他ないマスメディアの印象操作や、思い込みや決めつけが横行するネットの礫言葉に疲弊するくらいなら、そんなものは遮断した方がマシです。

 


ジャック・アタリさんの『メディアの未来』という本があります。

 

 

二〇五〇年、新聞、ラジオ、テレビ、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)、ジャーナリストは、まだ存在しているのだろうか。二一〇〇年ならどうだろうか。

 

SNSは、今後登場するさらに強力なテクノロジーの波に呑み込まれるのだろうか。

将来、誰がメディアを所有するのだろうか。

正しい情報を得る、知識を共有する、嘘と闘う手段が、これまで以上に存在するようになるのだろうか。

ジャーナリストの役割はロボットが担うようになるのか。それとも、ジャーナリストは民主主義、つまり、真実の保証にとってかけがえのない存在であり続けるのだろうか。

 

そうした未来の基軸を把握するには、「歴史」を振り返る必要がある。

 

メディアに関するさまざまな歴史を遡ってこそ、その未来を詳細に描き出すことができると考えるからだ。

 

私にとって、この物語は細部にわたってきわめて魅力的だった。筆をおいた現在、この物語が綴る壮大な数々の冒険に対する私の驚きを、読者に伝えることができると信じている。

 

(本書のまえがきより要点を抜粋)

 

 

 

その結びは「第13章 何をなすべきか」。

 

さらにその末尾「情報を遮断する時間を持つ」という節からの引用です。

 

   正しい判断を下すには情報を得る心構えが必要だ。その最良の手段は、時として情報を得ないことだ。

 

 

なるほど、言えてますね。