🌟東京春祭・85歳の名指揮者ヤノフスキのワーグナーシリーズ、今年は『トリスタンとイゾルデ』です。
20年ほど、このフェスティバルでは、演奏会形式で、ワーグナーを上演。上野文化会館です。
何度か彼の振る、いろいろなワーグナーの演目を見(聞き)ましたが、毎度、底からひっくりかえされるような驚きに揺さぶられます。
ワーグナーって、こんな四次元な曲だったとは!
🌟まず、舞台の上にオケがでーんと居座っていて、その前に、譜面台をおいて歌手たち。
そして、楽器と声がイーブンにまじりあい、対等なのです。
ふつうは、オケが舞台下に沈んでいるので、歌手が主役で、物語をリードし、歌いあげます。しかし、この平たい舞台の上に全員が並ぶ方式では
🌟声が語る意味や物語を、楽器が同じ比重でふちどる。
あ、こういうフレージングが泣かせる、というところを、オーボエやファゴットが対等にリピートします。それ、普通はほとんど無意識下になって、聞いていません。歌手が歌ったところだけ……それも言葉の意味を中心にきいてしまうので、物語にプラスして背景の伴奏という序列に陥りがち。
🌟ところが、この上演形態では、歌がドラマを作り楽器群が伴奏、というのではなく、すべてがひとつに混沌となって、「音楽」というワンピースな行為を滔々と押し流してゆく感じです。
この世の潮のようにエピタフのように流れゆく、全体が夢見るようなオーケストラ。
これぞワーグナー。
🌟物語(演劇・ドラマ)がストーリーライン、オケがBGM,としてそれを増幅、強化する、というのが普通の(オペラ)上演です。
特にワーグナーの聖地バイロイト音楽祭では、作曲者みずから、オケを、舞台の下の完全に見えないところに押し込めてしまっています。
しかし、今度の平置きタイプの上演では、もうトランペットもイングリッシュホルンも全部対等。歌手の声をつぶさないように音を控える(指揮者がコントロールする)どころか、奏者は自分の吹きどころを、思いっきり爆発させます。自分のソロ出番になると、椅子をもって脇の最前列に座りこむ奏者(笑)。
🌟ヤノフスキのやりたかったこと、私たちに伝えたかったことは、こういう感じです。ワーグナーの音楽では、どの細部もどのフレーズも全部、ジグソーのピースのように縦横無尽にからみあっている。スコアのどこも、「伴奏」ではなく、全部が「緊密にメイン」
🌟なので、三幕、瀕死のトリスタンが、イゾルデの船を待っている場面では、船の到着を告げる特殊なトランペット(ホルツ・トランペット)を吹く奏者が、いきなり袖からあらわれ、楽器を構え、不思議な音を奏ではじめました……ので、たぶん観客は全員それを注視し、耳を澄ませ、下手がわにいるトリスタンの呻吟は、すっかりその音楽の中に埋もれてしまっていました。
🌟この
「歌手のプライオリティ」が無残なほど否定されつつ、全体が有機的に輝きわたる上演。
あっぱれみごとでした。
声(言語で意味を語る)は、音楽自らが語る情調の中に、すっかり水没し、一体化してしまっていました。
🌟言葉の意味よりも、実は音楽のほうが雄弁ということが……
ワーグナー自身、自分で歌詞を書きながら、それを一番よく知っていたのだと思います。だから、ヤノフスキは、無意識下のその音楽をこそ、歌手のアクロバティックな名演以上に響かせたかった。
🌟それぞれの幕が、あたかも切って落とされるように終わると、劇場は15秒以上、沈黙に包まれました。ストーリーがこうなった、大団円という感動ではなく、音楽という生き物が巨大なクジラのように跳躍して泳ぎ没した、という「体験」です。
カーテンコールはえんえんと続き、この場は撮影オーケー。(白衣がイゾルデ、隣がトリスタン)
左からブランゲーネ、トリスタン、クルヴェナール、ひとりだけ、あくまで演劇支配の舞台として歌をきかせたマルケ王(屈指の名演)
御大ヤノフスキは5時間の公演を、終始、ハイリー・コンシャスに操りきりました。拍手が20分くらい鳴り止みませんでした。
すごい時空間の(怪物)体験でした。