お祭りはどこへ? でも”ライオンズゲートの流れに乗る” | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

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バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

お祭りの効用
 上のリュウ博士のブログでは、コロナによる祭礼の軒並み中止によって、何が失われるのか、という鋭い指摘がなされていました。

 

⭐️浅草でも三社祭を皮切りに、隅田川の花火大会、

サンバカーニバルなど、すべてのお祭りが「三密」を理由に中止になっています。

 

⭐️お祭りは、神さま仏さまを祈念し、あるいは聖人・英雄の事績に思いを馳せ、集まって盛り上がるものですが、単なる儀式や寄り合いではなく、すさまじいエネルギーの解放を伴うもの・・・・・・

 ヨーロッパ中世の「カーニヴァル」は、完全な無礼講、身分制度がその日は逆転し、道化が王様になり、飲酒・乱交、乱痴気騒ぎが繰り広げられるものでした。それが社会の息抜きというかバランスのためにはどうしても必要だった・・・・・・。

 20世紀にそれを論じたM・バフチンの文学論があって————あ、それ以前19世にはニーチェが『音楽の精神からの悲劇の誕生』を書いて、実は、端正に思えるギリシア時代にも狂喜乱舞のディオニューゾス(バッカス)のお祭りがあったことを指摘、

 

「アポロ的」(静謐で完成したもの)VS「ディオニューゾス的」(動的で忘我を誘うもの)

 

のふたつの芸術モデルをあげました。

 

⭐️「ディオニューゾス的」とは、ワーグナーら19世紀のロマン派の音楽にみなぎっていたもので、怒濤のような陶酔と熱狂、そして死への憧れ(というか生と死の一体化)をうたっていました。そもそも「祭り」では狂気や殺人や姦淫も行われ————原初のエネルギーだったのですから。

 そこでひとは一夜リボーンした・・・・・・

 

⭐️お祭りは、ある意味秩序を破壊する危険なもの、生命のカオスでもあります。まさに、ロックのライブコンサートのような、小劇場の演劇のような、スポーツ観戦のような、(お御輿のもみ合いは最たるもの)そうした「野蛮で激しい肉体性の奔出」が今回ぜんぶ「コロナ」による自粛烙印を捺されています。

 

 わたしたちは、静謐で、じっと距離をおいて(ソーシャル・ディスタンス)対象を観照するような「アポロ的」態度をこの時期求められているのでしょうか————それはもしかしていま、必要なものだったのかなとも。

 

⭐️当然ながら、秋の大学学園祭も中止が決まりました。学会もほぼ中止です。

 矢印を自分に向け直す時期がまだ続くような気がします。毎年やっているから、恒例だから、とやっていたことが全部見直しになり————

 

⭐️しかし上のリュウ博士ブログにあるように「ひとがあつまることによってエネルギーのベクトルができて、それが後押しとなり、変容を加速させるのがお祭り」となるためには、一度止まることで、新たに祭礼の力が増すような気もします。「天岩戸」のような、「死と再生」のような。再活性化のような。

 

⭐️ちょうど、さとうみつろうさんのぶあつい二巻本『出口はいつも入り口にある』『入り口はいつも出口にある』が届きました。AIがクールに人間の習慣的思考を切りまくる、そうとうに思考が断捨離される本です。まだ半分ですが、これはライオンズゲート期間に読みたい本。