いつもその場で弾んでいる猫↑
奥平亜美衣さんのこのあいだの記事がすごく心にひっかかっていました。それは
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「いい気分でいること。
目の前の現実がどうあっても、自分の見るところ、考え方を選択し、自分の感情と波動を自分でコントロールし、いい波動の状態を出来るだけ保つこと。
つまりそれが、ボルテックスに入っているということであり、
ありのままを受け入れているということ。
そんな風にいい気分でいたら願いは自然と叶っていく。
それが、エイブラハムの教えの核になるところです。
そしてわたしは自分の身を以て、これが真実だということを体験しています。
ただひとつ勘違いして欲しくないのは、
いい気分でいる、というのは、願いを叶えるメソッドではないということ。
いい気分でいたら願いは叶うんでしょ、というのは確かにそのとおりなのです。
しかし、願いを叶えるためにいい気分でいよう、とすると、
「願いを叶えようとする自分」=「まだ叶ってない自分」
が現実化され固定されてしまうのです」
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奥平さんのこの赤字部分。
いつも○○を叶えたい、あと△△がほしい、あのことがこうなれば、と、わたしたちは、いつも願いを打ち上げています。願望を打ち上げるのは人間の自然な営みで、それでもって宇宙は進化してゆく(さちまるさんいわく「聖なる望み」)のですが、それはわたしの場合、ときに「不足を埋めたい」になっています。
○○が叶えば、幸せになる。
となっているのです。
(ではなくて、幸せになる、が目的のはずだった。)
朝起きてふと気づくと、あ、背中が凝っている、ここもあそこも片付いていない(要するに家中片付いていない)、捨てるものを弁別しなければ、○○の用意をしなければ、と次々
「叶うとよいこと」がずらりと並びます。
でも、それはよく見れば「不足・不備を埋めること」になってしまっている。
で、この「埋めたいリスト」のどれか、叶ったら、すごく嬉しいか? と自分にきくと、それは「埋まっただけ」で、叶ったらほっとする、叶ったら掃除がすんだときのような気分になる、つまり欠落が埋まる、だけなんだ、とわかります。
そして欠落が埋まるというのは
「背中が凝っていないときは、背中のことを考えもしない」
わけで、ただゼロになる————
★願望、願望と探して(一応ワクワク?)やっているはずなのに、いつかその目的は、「問題解決」にズレてしまい、「ヴォルテックス」ではなくなっている。つまりほんとうはウェルビーイング(訳書によっては「無上の幸福感」)になりたくて、そのためにいろいろな望みのドミノを倒してゆくのですが、ドミノ倒しが目的になってしまっている……
試験が終わったらすっきりする、さあ勉強だ→試験が終わったときの空白感!!!
は学生時代よく体験しました。
( ※じゃあ、ということでNLPの「メタ・アウトカム」という考え方もあります。目標の先の目標をちゃんと考えて視野に入れておかないと、燃え尽きてしまうから、これが叶ったら、それによってこういうことをして楽しもう……と考えておく。)
★しかし、本当は目指すのは、ヴォルテックスにいること、ウェルビーイングの状態にいることだったはず。問題解決をするのはそれは「クイズ王」の番組のように面白いですが、
あれ、「それが解決したらヴォルテックス?」と自分にきいてみると
「それが解決したら、次の解決」と心が答えます。
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「いい気分でいても願いが叶わないよ、という人は、
いい気分が願いを叶える手段になってしまっていませんか?
そうではなく、いい気分でいるというのは、手段ではなく、目的であり、最終地点なのです。」
————————(ここまで奥平さんブログ続き引用)
★立ち止まってみると、問題解決や叶えたい望みはいつでもあるのですが、それをクリアーすることに心が向いてしまい、つまり「問題解決」にフォーカスしてしまっていることに気がつきます。
何かを解決したり、ゲットしたり、叶えたり、の彼方に「いい気分」がある、
とふと、誤解してしまっている。
いつも「いい気分」が一番先。そこに入っていることで十分。
いま、ここで、そこに入れる。つまりクリアすべき問題はない。○○しなければ、の望みもない。
(よく考えると、とても単純なことでした。ゴールと思っていたのはスタート地点、いやゴールがここにあるだけ)
自分にリマインドしました。「いい気分の池に居続ける」↓
https://ameblo.jp/hermione3/entry-12444194540.html
★ここでほっと動きたくなくなり、「なんだ、いまここでいいんだ」と————すうっと安心(無意識さん)がやってきました……その場で足踏みしている上図の猫