「五黄の寅の年は大事件が起こりやすいらしいで。」
アルバイトをしていた焼肉店で軽い打ち上げをして帰った
その日の夜、名古屋の大学に行っていたサコッペに
電話でそう言ったのを妙に覚えている。

何故か眠れず、部屋の電気をつけたまま、うつらうつらして
いた5時46分、それはやってきた。

「グラッグラッグラッ・・・」

最初、地震であることは分かっていた。
それは何度となく体験していたから。
そしてすぐ止むだろう。
ほんの1・2秒ほどでそう感じた。

しかし激しい揺れは留まることなく、激しさを増していった。

地の底から響くような「ゴーーーーーーーーッ」という音
壁や柱が左右に激しく動き
今までに見たことがないほどの粉塵と柱の軋む音、
身体は凍りついたまま、破壊的とも思える激震に預けたままだった。


気がついた時には部屋の電気は消えていた。
とっさに部屋の外に出る。

これは地震ではない。隕石か何かが地球に衝突した。
世界、大丈夫か?本気でそう思った。

同じ下宿の先輩達がその数十秒後に出てくる
「何や?」「何が起こったんや?」
誰もその疑問に答えることは出来なかった。

そこから、
テレビが一瞬だけ繋がるまでの事は断片的にしか覚えていない。
朝のニュースで「地震だったこと」「神戸近郊でそれが起こった事」
を知った。最初は公衆電話もテレビも繋がっていたように思う。
今となっては呆れるが、限られた地域だった事で安心すらしていた。


しかしそれも下宿から外に出るまでだった。
重いはずの自動販売機は倒れ、電信柱は斜めになっていた。

「!?」声にならない。
近所の家が・・・完全に崩れていた。
何件も・・・。何件も・・・。数多い学生寮も同じだった。
倒壊した住宅の前で、立ちすくす人。
誰も出てこない家もたくさんあった。

当時付き合っていた彼女の様子を
見に行くため先輩に原付を借りて走る。
道路はあちこち隆起と沈降を繰り返していた
電線は何十本と垂れ下がり、生活の音は何も聞こえなかった。
高台からみる見慣れた西宮の街から白い煙が
何本も、何本も立ち上っていた。

そこからの現在までの記憶は断片的だ。


近所のコンビニは長蛇の列ができて
弁当、お茶は勿論、お菓子から調味料まで
何から何まで食料だけが全部消えていた事。

バスが走るようになった時、みんなリュックを背負い
何日もお風呂に入っていないようなすえた臭いが立ち込めていた事。

ニュースでは最初は100人くらいだった
死傷者の数が爆発的に増え続けていったこと。

友人を頼って電車に乗って梅田に着いた時、
みんなが普通に歩いていることにショックを受けたこと。

広場という広場に仮設住宅がところ狭しと設置され
その数は時の経過とともに増え続けたこと。


火事場泥棒のような事件が多発していると新聞に書いてあり
人の弱みにつけこんだ薄汚さに心底憤りを感じたこと。

1995年1月17日の前日まで6433人には
それぞれ人生があり、夢があり、悩みがあり
「明日という日がくること」に少しの疑問も感じてなかった。
今もなお、残された人の心の中には「何も出来なかった」という
どこにも憤りをぶつけることが出来ない悲しみと怒りがあると思う。

小説家を志していたという当時二十歳の重松克弘さん。
瓦礫の下から見つかったという彼の小説。
大学の同窓であり、職場のM君の同級生のお兄さんであった彼を
始めとする震災で傷ついた人々へ心から哀悼の意を表したい。

このブログを読んでくれている皆様にも
周りにいる愛すべき人たちと明日もまた会えるという確信を
大切にして欲しいと、切に思う。