☆月曜ですが!休暇を生かし午後から自由研究!
☆今でこそ近所は「白金台」とかいってますが・・
☆小学生の頃の住所は「芝白金今里町」でした!

江戸時代の地図を見ると「今里村」の名があり、
周囲は「百姓地」となっています。

なんせ「江戸のはずれ」でしてお寺(=お墓)の
多い、さびしい江戸の辺境地だったようです。

明治になり、日本人が牛肉を食べるようになると、
早速、政府肝いりで「屠殺場」が作られました。

今里の屠殺場から仕入れる肉で、明治の東京市内
のスキヤキ屋は大繁盛!

当時のスキヤキ屋は先を争い今里の屠殺場に殺到、
競って屋号に「今」の字を入れました。

たとえば人形町の「今半」、新橋の「今朝」等々。
「今」で始まる屋号は老舗の証です。

で、戦前からの住人、ウチの町会長の話・・

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ここが今里の「屠殺場」の跡らしいです
小学生時代は大きなお屋敷だったけど、
バブルのころ、億ションに化けました


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正面に小さな六本木ヒルズを臨む「女坂」
の中腹にあります。近所に2つ坂道があり、
町会長はキツイ坂を「女坂」、緩い坂を
「男坂」と呼んでいました。ただ人により
キツイ坂を男坂、緩い坂を女坂と呼ぶ事も
あり、女性観に明らかな違いがあることが
大変よくわかります笑。え?私?そりゃあ
もちろんキツイ坂が女坂でしょ・・ わわ!


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画像左から右へと「女坂」が登り坂になっています。
正面袋小路の奥が、昔(本物の笑)お屋敷、
そのまた昔の明治時代は「屠殺場」だった?


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女坂の残りを登りきったところの道
画像手前に向かって牛や豚が引かれ
ていくのを見た、と町会長


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ここで三田用水とぶつかるんですが、
小さな橋がかかっていて、牛も豚も
ここまで来ると運命を悟って涙を流
したそうで、別名を「泪橋」


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この道に沿い三田用水が流れてたそうです

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さらに上流部分。この真ん中辺りに町会長
のお宅があり、豪雨で増水時には床下浸水
の経験もあるとか。山の手の真ん中ですが・・


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ここが最も標高の高いところで元禄時代から
続く「今里地蔵」があります(赤い彗星、あ、
違った赤い屋根です)お地蔵さん後方に沿い
石垣の堤の上を三田用水は流れていました


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わずかに現存する堤の上の三田用水の跡地
室戸台風(1934年)で用水が決壊し、以後、
ここ以降、用水を流さず、ここから滝で落
として目黒川に流していたそうです


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見下ろすと確かに高いですね。町会長の話
だと近所の人達が洗面や洗濯に使用し、足
を滑らせ亡くなった方もいたそうです


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「滝」の部分を下の方から見上げました
上の木々が前の画像にあった三田用水の跡地です


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振り返るとJR五反田方向へ続くなだらかな坂
五反田駅の先には目黒川があり、東京湾へと
注いでいます(羽田に向かうモノレールから
河口を見ることができます)


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拙著「三田用水の研究」にも登場してた写メ
ですが、さきほどの用水跡地から少し上流に
あり、これまた町会長によれば「北今里橋」
と呼ばれた橋に付随してた「ガス管か何か」
とのことでした


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幼稚園のころ、よく遊びました笑
いわゆる産業遺構という奴ですね


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まさしく「ガス管か何か」ですね
道路工事の度に壊れて行きます・・


「屠殺場」という観点から、
生まれ育った町をフィールド調査してみました。

もしかしたら「屠殺場」は、
辺境の地に押しつけられた迷惑施設だったのかも。

その後「屠殺場」は港区の港南の方へ移り、
さらに大田区の太田市場の方へ移っていったそうです。

そうした歴史が、そのまま東京が膨張していった、
歴史に重なっているのかもしれません。

町会長は「いまでもあそこらを掘れば、
牛や馬の骨が出てくる」と言っていました。

その機会があれば、
ぜひケータイ片手に「撮ってUP」してみたいと思います。


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