最愛の人を亡くした。住む家や仕事を失った。今、そんな絶望の只中に能登半島の被災者はいる。想像するだに心が痛む。そんな大打撃ではないにせよ、コロナで失ったものも大きい。失ったものを詮索しても詮無いとは思うけれど・・・。
志村けんの死は衝撃だったこのコロナのお陰で想定外となったことが幾つかある。コロナ前はスポーツジムに定期的に通って体形維持に努めていたし、名古屋城を中心に大須や白鳥庭園などの観光スポットでの訪日外国人の案内ボランティアなどで、毎日外出していたのがパッタリ止まった。さすがにこの4年間で体形維持の熱意も、ボランティア・ガイド復帰エネルギーも揮発した。また、退職後の愉しみであった海外旅行も皆無となった。
エネルギーが枯渇した
やはり流れというものがある。重い荷物を背負っての山登りでは、休憩の際にはリュックサックを背負ったまま休んだ。それは立ち上がった時に、余計重く感じるからだ。きつい山道も亀の歩みでもいいので、絶対に立ち止まらないようにしていた。このことはマラソンでもそうだった。海外旅行などというものは、行かなければ行かないで済むことだ。結局どこへ行っても同じだと割り切ればそれまでだ。
ボランティアが不足しているというのに
このところ訪日外国人の数もコロナ前に戻りつつある。特に今は、円安なので外国人にとっては日本の物価が安く感じられて好都合だろう。しかし私のガイドボランティア熱は、一旦腰を下ろしてしまったので、なかなか重い腰が上がらない。
人生、あきらめが肝心
高齢者の私でもその程度の影響があったのに比べて、若い人たちが失った学校または職場生活や、仲間や同僚との交流機会などは計り知れない。だが、問題は若い人には何事も経験だと前向きにとらえ、次の活動に生かすことも可能だし、できなかっことを取り戻したり、再開する時間もたっぷりある。だが、高齢者にはその時間がない。諦めが肝心とはよく言ったものだ。
異邦人 (久保田早紀唄)
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