しかし、その後、1968年チェコスロバキアの「プラハの春」(チェコのドプチェク政権のすすめる自由化政策)がソ連の軍事侵攻で潰されたこと、ソビエトや中国では一党独裁で民主主義が否定され、言論の自由や集会結社の自由など自由権的基本権が守られていないこと等から社会党にも疑問を持つようになりました。また、国連に常設軍は創設されず、それどころか五大国の拒否権発動で国連による安全保障の無力さを知り、永世中立国のスイスも国土防衛の軍隊を持っており非武装では不安であり専守防衛の範囲内で自衛隊は必要だと考えるようになりました。

そして、1976年6月に「保守政治の刷新」を掲げて誕生した新自由クラブのインパクトは、私にとって非常に大きなものでした。さらには自民党内でもハト派・護憲派の若手リーダーとして注目されていた河野洋平氏の清新な魅力にも引き付けられ、一気に新自由クラブと政治家河野洋平のファンになりました。細川政権時代、自民党は野党になり河野総裁が森喜朗幹事長と共に、私の地元船橋市に街頭演説に来ました。私は、その3年前に自民党代議士の地元秘書を1年半経験し党員にもなって翌年の船橋市議会議員選挙に立候補するため準備をしていました。自民党千葉県連が船橋駅前での河野総裁の演説を録音していましたので、テープを頂き何度も聞いて演説の練習をしたほどです。

 政党を維持するということは大変なようで、最初衆参6名で出発して直後の衆議院選挙で17名当選しましたが、その後離党や落選などで徐々に減り10年で幕を閉じました。そして、ほとんどが自民党に復党または入党し、河野代表も思想的に近い護憲リベラルな派閥である宏池会に入会しました。