おわりに

1947年5月3日に、全国民への憲法の普及を目的として、「新しい憲法 明るい生活」と題する小冊子が、2千万部全国の各世帯に配布されました。私の両親は、共に農家の出で国民学校(日中戦争後の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校)しか卒業していません。そのため憲法を深く理解していたとは思えませんが、明治憲法と異なり分かりやすい口語体でしかも平仮名で書かれ、それなりに素晴らしいものであることは理解できたのだと思います。だから1950年生まれで長男の私に、村内に私より年上ですが同じ名前を付けてもらった子もいたそうで、日本国憲法の憲の字を取って私を「憲一」と名付けてくれたと母から聞かされたことがあります。

 中学生の時に社会科の授業で初めて憲法の全文を知りました。以来、憲法の存在を少しずつ意識するようになり、高校時代には、憲法を文面通り理解し青年期の理想主義と相まって、非武装中立が日本のあるべき姿ではないかと考え、当時同様の政策を掲げていた日本社会党を支持するようになりました。非武装中立を維持するためには、国連を強化し常設軍を創設することやその発展型としての世界連邦による集団安全保障が必要と考え、コスモポリタン(世界市民)に成りたいと友人に語っていたことが懐かしく思い出されます。

 私の父親は、3歳の時はし(・・)()に罹って小児麻痺になり左足が細く、重度ではありませんが身体障害者でした。あまり丈夫ではなく後に、私が29歳の時、57歳の若さで亡くなりましたが、障害者など社会的弱者も安心して暮らせる社会、福祉に力を入れてくれそうな点も社会党の支持につながりました。