Ⅳ.(本文)



 理系の男と文系の女がすれ違うのは無理もないであろう。だがすれ違うどころか、これは出会ってもいないという点が問題であるのだ。

電車の同じ車両に乗って、一日たった二十四時間の内の、一時間も傍で過ごしているのに、声を掛けることもなく、勿論、掛けられることもなく、互いを意識し、恋と認め、だけどもきっと、二人の朝の目的地が違うように、別々の点を打ち続けているうちに、人生の座標の中でもすれ違い続け、いつの間にか自然に別れている、この、どこの馬の骨、をいつも一人飛ばした、もどかしい男女二人。


(おいおい、お二人さん。…手前も毎日毎日、同じ車両に乗ってるんですぞ。…ま、地味なオヤジはアウトオブ眼中、ってとこか。)


カタカタと、ポメラのタイピング音が一時停止した電車内で響き渡っている。幼い頃からゲームでも本でも物語の世界にすっかり入り込むところがあった。昔から集中力だけはズバ抜けていた私の悪い癖だ。妻が新しい型のシースルーポメラを買い足したので、この“お古”のカワイイ黒い奴が己の元へやってきたのだ。飼い猫のように小ぶりなコイツに愛着が湧いてしまい、空き時間には“親父のつぶやき”みたいなものを書き記すようになっていた。するとどんどん楽しくなり、柄でもないが物語のようなものを書いてみることにしたのだ。まずは、身近な風景を、少しずつずらしながらストーリーを仕立てていこう。

周囲に意識を向け、観察が癖になると、気づきが生まれる。毎朝同じ車両には“常連”がいて、なに、その中の2人が、どうも互いを意識しているようではないか。これは面白いぞ。

さて、この若い男は、「大事な試験」という表現がまだ弱いか。理系の大学生、とは何だろうか。医学生を描くにはどうも知識不足だ。いや、だがやはり、医学部の方が箔が付くな。一方、女は女で、「魔女の指をしている」という表現は、一気に性的魅力が萎えてしまうような…。

ふと顔を上げると、どれどれ、いつもバラエティー豊かな向かいのほうの三人掛けの席には本日、ゴスロリの格好をした若者や、何を買ったか知らんがエコバックを骨壷のように大事そうに抱えている所帯じみた中年の女、それから仲睦まじい定年後の老夫婦が立ちと座り…か。いやいや実に平和である。

平和は結構だが、お隣のこの二人のような喚起は起こらぬのだよ。


愛しているなら、愛していると言わせてみようか。

そこからはじまるのも悪くはない。

冒頭に、愛を、か。


感情も動きも好きに操作できる、フィクションの創作とは何と楽しい作業だこと。



さてさて…


本が想像からできるだなんて、

やはり、こんな発明、インチキ臭くはないか。


「あのー、すみません。出たいんですけど。」


応答がない。

歯欠けのオヤジはどこかへ消えたのか。

少しだけ声を張り上げてみる。


「出ますよー、いいですかー。」



「一一一 はいはい。…完成しましたよ。」


「完成?本が?…出来たんですか。何も書いていないですよ?」


「ちゃんと読ませて頂きました、お客様の物語。」


指先を駆使して、無理やりチャックを内側から開けると、天井の裸電球が目を刺すように眩しかった。歯欠けのオヤジの二重あごには不思議と髭の剃り残しはなかった。

本屋で初めて人に開かれた本は、こういう視点で世界を見ているのかもしれない 、という事には気付いた。暗闇から、明るい世界へ。その瞬間。たぶん、産声を上げるように。


「あ…、ありがとうございました。いや、あの、出来た、とは?」

私は、髪の毛を両手で整えながら、まだまだ疑いの半笑いを添えて店主に尋問した。


「お客さん。不審がられてたんで、私が先に、500円、立替えといたんですよ。…頂けますか?」


男はまるで、貧しい国の、お金を乞う子供達のように、両手を差し出し、たったワンコインを両目を血走らせて要求してきた。


「あ!これはこれは、失礼しました!はい、どうぞ。」

私はズボンのポケットの小銭入れから、慌ててそれを取り出すと、あったあったと大袈裟に店主の掌に拝むように御供えした。


「はいどうも。 ……では。…コレなんです。



何も期待はしていなかった。

てっきり、どうせ。

頓知のようなもので逃げられるのだろうと。

だから、逆に。

驚いたのかもしれない。


“目に見える”「発明品」の、出現に。


店主が、寝袋の上方の、汚いベージュ色の麻布をパッと剥がした。


「これは…



「あなたの本です。」


店主も眼鏡を下げ、流石にそれを二度見したようだった。


「あれまぁ〜きれいな色ですねぇ。桃色…ピンクとやらですか。素敵な恋のお話でしたものね。」


「これが…」


自分はただただ、息を呑むことしか出来なかった。


「ちなみに、ココね。今はもうこの本外しちゃったけど、執筆中はコイツと繋がってっから。」


細いコイルの先には、90年代に流行ったMDプレーヤーを改造したようなシルバーの装置。そこには、500円玉の投入口と、ビーカーやらフラスコやら、試験管も?


「ちょっとよく、わからなくて…。」


「あぁ、いや、とにかく、まだ最後にやらないといけないことがあるんでな。…コレコレ。ラベルを貼っとくれ。」


「いや…何を言ってるかが…」


「なーに。自分が、母親のお腹から出た瞬間を想像してみるだけだよ。想像しただけ、書いただけ、は、まだ胎内ね。本で言うと実はまだ『未完』なんだ。明るいとこにオギャーって出てきた時、つまり、誰かに読まれた時にはじめて本は完成するってわけ。そして、名付けは、存在証明にもなっから、忘れないでやっとくれ。はい、ラベル。」


「…、何を書けば?」


「あぁ、悪い悪い、この発明はね、ただの物質としての本を作るってのじゃなく、書き手と読み手を繋げる、ってもんでもなく、本の『階層』を作る事で仕上げるもんなんだ。」



「階層…?」


「私は発明者だから、あなた様の物語を覗けたわけだが、あなたが今ここで創った想像の産物には、読者のような単に横並びではなく、その全てを上から見れるような、そうだな、神の視点のような覗きのポジションでの、本のタイトルや、世界名なんかをラベル付けして、閉じ込めて欲しいんだな。イメージは、マトリョーシカですよ。」


店主の胡散臭さは不思議ともう皆無となっていた。私は渡されたラベルをそのガラス面に斜めに貼り、マジックを握りしめた。


「絡繰り、きいても大丈夫ですか?」


「ききますか…?」


珍しく店主は勿体ぶったかのように焦らしたが、すぐ語り出した。


「コイツに入ったとき、耳栓してもらったでしょう?そこから、細い細い、もちろん血も何もでない目に見えない特殊な針で、ちょちょいと脳内のある分泌液を拝借しましてね。」


「え。」


「それを、この研究を重ねた花弁の液と合わせると、その瞬間の脳内記憶が閉じ込められるんですよ。同時に、その内容に合う色と薫りが発生する。」


「だ、大発明…過ぎやしませんか。」


「この本は、蓋を開けて、香りを嗅いだり液体が身体に触れると読み手の脳にリンクして、中身を読むことが出来る。勿論、目ではなく、嗅覚や触覚で読むわけだから、盲目の方でも、耳が不自由な方でも、だから、勿論お年寄りでも。まぁ、この本の中身が干からびるまで、読めるってわけですよ。」


「こんなの!発明品どころか、ノーベル賞…、いやちょっと、普通じゃないですよ。自分が、仕事先…いや、うん…やっぱり、自分が世に広めましょうか?」


気がつけば自分は少し興奮し過ぎていたようだ。


「…ハッハッハ!こんな本があってもいいんじゃないかなぁ〜と趣味で作っただけなんでね。…まぁ、最新のAIなんかと似て非なるモノかもしれないですねぇ。それよりかはレベル的には10倍は優に進んだものにはなりますがね。」


店主は、仏のように全てを見透かした目で、ゆっくり語り出した。




「なぁーに、優れた作品と同じで、優れた発明品が全て、世の中に出回ったり、脚光を浴びるわけじゃないですよ。」


「元々、脳外科医だったわたしは、大昔、轢き逃げ事故を起こしてしまいましてね。そこから、まぁま、人生…台無しですよ。そんな奴の発明品なんか、一体誰が、光を当て、認めてくれますかね。運良く目立てば、一転、アイデアだけ盗まれて終わりですよ。いいんです、こうして、人目を気にせず、偏見や差別の心を持たず、この、私だけの空間に遊びにいらしてくださる、旦那様のような方に、楽しんで頂ければ。」


「そう…かもしれないですね。」


私は御寺のお坊さんの説法を聞いたあとのように、穏やかな、素直な気持ちになっていた。


「あ、じゃ、さいごに。…決まりました?」


白いそれだけはやはり皆無の歯茎を露出しながら、店主はニコニコと、自分の手元に目配せした。


「あ、そう…でしたね。自分には力不足で、物語は途中までしか書けませんでした。自分じゃない人に譲渡的な、“階層渡し”もアリですよね?」


「勿論でございます。」



「じゃっ。最近、妻が、二作目の小説のネタが無いとかぼやいてたから。彼女なら、このストーリーの続き、うまく繋いで作ってくれそうだし。」


「あれぇ…?途中まで拝読しましたが、折角なら、旦那さんご自身も、登場させればよかったのに。」


「…はは。私なんか、死んだ〜とか、居ないって設定の方が、都合いいんですよ!世の中の旦那なんて、そんなもんでしょう?」


「そうかもしれませんね。」


まるで旧友のように店主と心から笑い合ったあと。

私はマジックをキュッキュッと走らせた。



「えーっと、確か、妻のブログ名は…」



『ふき日記』、っと。
















ー 完 ー



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『 ほん 』 / 蕗田 、(つづく)



目 次


Ⅰ 栞   

Ⅱ 帯

Ⅲ  カバー

Ⅳ(本文)



主題・あらすじ


『未完』とは何か。


それぞれの人生軸で、決して交わることのない赤の他人が、同じ時間と場所で、何度も何度も物質的にすれ違っている。そんな大抵の男女の出会いは、ドラマチックに展開することもなく、並行したり屈折したり、座標の中で錯綜し続けている。本に例えるなら、決して本文ではなく、カバーや、栞や、帯の部分のお話。もし、或る二人のために、本文という物語を創る語り手が現れるとしたら、それは一体誰であるのだろうか。

山積みにされ、ポップとともに並べられているそれらは、作品として、本当に『完成』しているのだろうか。

そして、語り手もまた、作者という上位の階層者である何者かに、覗かれて、書かれて、操られているのだ。

そして、その作者が、電車内でポメラをカタカタ鳴らすとき。斜め向かいの誰かに、観察されていやしないだろうか。

…ともすれば、この世界の物語は、永遠に。

『未完』なのかもしれない。


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ブーケ2ブーケ2ブーケ2あとがきブーケ2ブーケ2ブーケ2


ピンクの本を渡しながら、夫はこう話す。


「ひとつ、不思議だったのは、名付けの前に発生したはずのこの本の薫りが、ふきのいつものバニラの香水だったんだよな。」




『ルービックマウンティング』のスピンオフのような、

このショートショートの主人公は、まさかの、

ふきの夫でした。(笑)


もう何が、本物で、何が、偽物かわかりませんね。



今、夫を駅まで送って行った帰り、車内から、信号機のない横断歩道を、全速力で渡る御婦人を見かけました。


ふと見ると、バスの運転手さんが、おそらく定刻を少し過ぎても、走る彼女を待ってあげているようでした。


田舎の高校時代を思い出したのです。



私は時間に厳しい人間で、都会のこのビジネス社会が意外にも性に合っているのですが。


あの、30分に一本しか来ない真夏のバス停で、時間にルーズな運転手さんの優しさに、守られていたことにも。



私は同時に気付いたのです。


ブーケ2ブーケ2ブーケ2ENDブーケ2ブーケ2ブーケ2