池内の読書録

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本を読んで思ったこと感じたこと


テーマ:

(「嫉妬」部分は特に問題点がないので割愛)

 

朗読: 世界が人間的に、餘りに人間的になつたとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。

 

今日、愛については誰も語つてゐる。誰が怒について眞劍に語らうとするのであるか。切に義人を思ふ。義人とは何か、―怒ることを知れる者である。

 

ナレーション: 怒りについて三木は人間に必要だと肯定する一方、憎しみについては激しく否定しました。

 

朗読: 今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられてゐるものはない。怒はただ避くべきものであるかのやうに考へられてゐる。しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎みであつて怒ではない。

 

怒はより深いものである。

 

 

島津有理子: 怒りは良いけど憎しみは悪いっていうことですね。

 

岸見一郎: 比較的いいぐらいですよね。腹が立った時に内にこもって憎しみ続けるよりはからっと怒った方がましだ、ぐらいの意味ですよね。

 

伊集院光: ずうっと、あの野郎どうにかしてやろうじゃないかとなってるよりはずっといい。

 

 

 三木清は<怒りは良いけど憎しみは悪い>などという価値判断をしてはいない。<比較的いい>などというのも「出任せ」でしかない。避くべきは「憎しみ」であって「怒り」ではない。「人間的に、余りに人間的になった」世界には「怒り」が必要だと言っているだけである。

 

 

岸見: 社会の利害関係の中で生まれる怒りというのは確かにありますし、この世にいろいろな不正が満ち溢れてるでしょ。そういうものに対して怒りを覚えるということは必要だと思いますし、三木自身も「公憤」という言葉を使ってるんですよね。

 

 

 『人生論ノート』には<公憤>という言葉は出てこない。報知新聞に掲載された『正義感について』という小論には出てくるが、本文中に出てこない「公憤」よりも絶対にここで押さえておかなければならないのは「正義」という言葉の方である。

 

 「怒について」の冒頭、三木清は次のように書き始める。

 

Ira Dei(神の怒)、―キリスト教の文獻を見るたびにつねに考へさせられるのはこれである。なんといふ恐しい思想であらう。またなんといふ深い思想であらう。

 

 神の怒はいつ現はれるのであるか、―正義の蹂躪された時である。怒の神は正義の神である。

 

 神の怒はいかに現はれるのであるか、―天變地異においてであるか、豫言者の怒においてであるか、それとも大衆の怒においてであるか。神の怒を思へ!

 

 三木清がこのように強く言うのは、

 

《内的立法の純粋實践哲學としての倫理學にあっては、ただ人間對人間の道徳的関係のみがわれわれにとって理解きれる、けれどもこれに關して神と人間との間にどのような關係が行われるかは倫理學の限界を全く超越しており、われわれには絶對的に不可解である。然らばこれによって上に主張ざれたことが確められる、即ち倫理學は人間相互間の義務の限界以上に擴張せられることは出来ない》(カント『道徳哲学』(岩波文庫)白井成允・小倉貞秀訳、p. 186

 

として我々が神の怒りを蚊帳の外に置いてしまったからである。

 

《神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される》(ローマ人への手紙:1.18

 

にもかかわらず、我々は神の怒りを聞く耳を持たなくなり、不義を抑える術(すべ)を喪ってしまった

 

 

朗読: しかし正義とは何か。怒る神は隱れたる神である。正義の法則と考へられるやうになつたとき、人間にとつて神の怒は忘れられてしまつた。怒は啓示の一つの形式である。怒る神は法則の神ではない。

 

 

岸見: 正義感から異議を唱えることは必ず必要だというふうに思っていますし、そういうこともできない現実に三木は憤りを感じてた。

 

伊集院: なるほど、この分かりにくい文章はまたある意味こめられている隠されてることはそこなんですね。社会に対しての憤りを口にすることがはばかられているという。

 

岸見: その通りです。

 

 

 三木清は哲学者であって運動家ではない。三木清が憤りを感じていたとすれば、それは哲学的なものにであって政治的なものにではない。先入見なく本文を読めば、これが哲学論であって時局論、政局論でないことは分かるはずである。

 

 次に「怒り」と「憎しみ」の対照表が提示される。

 

 

怒り 憎しみ
突発的 習慣的で永続的
純粋性・単純性・精神性 自然性(反知性的)
目の前の人に対して  目の前にいない人に対して
     アノニム

 

 

島津: 怒りが純粋性、単純性、精神性であるのに対して、憎しみは自然性、反知性的であるとしています。この点がちょっとわからないのですけども。

 

岸見: 怒りの場合は少なくとも目の前にいる人に向けられるわけですから、理由があるはずなんですね。そういう意味では知性的です。でも憎しみというのは自然性っていうふうに書いてあるのは理由がないんですよね。

 

伊集院: 怒ってるもともとの理由がわかんなくなっちゃって、この挙げた手を下ろせない理由を作ろうとする。憎しみまで行くともう憎しみを持続するために憎んでったりしますので…

 

岸見: そういう意味で習慣的、永続的という言葉をここで三木は使ってるんですよね。

 

 

 そもそも三木清は今流行りの「反知性的」などという言葉を使っていない。「怒り」にも「憎しみ」にも理由はある。「怒り」は理由があるから「知性的」で、「憎しみ」は理由がないから「反知性的」だなどというのは出任せである。「憎しみ」が「自然性」を現すとは、それが習い性(しょう)となったということであり、それにともなって理由が背面に隠れ見えなくなってしまっただけである。

 

 

伊集院: 「怒り」と「憎しみ」っていうのは、対象自体も違うってことなんですよね。

 

岸見: 対象自体が違いますね。「怒り」は目の前にいる人に対して作り出される感情です。他方、「憎しみ」は目の前にいない人に対して作らえる感情であるというふうに考えています。アノニムという言葉を使っている。アノニムな相手に対しては、そういう感情を持つんですけど、ヘイトスピーチなんかはその最たるものですよね。個人じゃないですよね。他の国の人に対して向けられた感情ですよね。

 

 

 この対象の話も三木清は書いていない。「アノニム」という言葉は、『名誉心について』には出てくるが、『怒について』には出てこない。「憎しみ」が目の前にいないものが対象であるにしても、それは「アノニム」(匿名)であるかどうかとは関係がない。

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