以下、五来重『鬼むかし』(角川選書、1991)から引用です。

ーーーーーーー
鬼一口

一 「一寸法師」の鬼
p.19
 昔話の鬼と天狗はきわめて似ており、鬼を天狗に置き換えたような話が多い。


二 「大江山」の鬼と童子
p.23
 鬼が人を食べるという話は、古代にも中世にも多かったらしいが、これは鬼という霊物を真剣に恐れた時代だったからである。「大江山」や「安達ヶ原」はそのような時代の所産であって、仮に謡曲「大江山」を見ても、
  えいや/\と組むとぞ見えしが、頼光下に組み伏せられて、鬼一口に食はんとするを、頼光下より刀を抜いて、二刀[ふたがたな]三刀[みかたな]刺し通し刺し通し、(下略)
とあり、「安達ヶ原」では、
  野風山風吹き落ちて、鳴神稲妻天地に満ちて、空かき曇る雨の夜の、鬼一口に食はんとて、歩みよる足音 、ふりあぐる鉄杖のいきほひ、あたりを払つて恐ろしや。
という風に「鬼一口」がもちいられている。

p.23〜24
謡曲「大江山」では、
  童子もさすがに山育[やまそだち]、さても童形の御身なれば、憐み給へ、神たにも、一児二山王[いちごにさんのう]と立て給ふは、神を[(も)]避くる由ぞかし、御身(源頼光)は客僧(山伏)、我は童形の身なれば、などか憐み給はざらん。
とあり、酒呑童子は山(比叡山)で育ったことが語られている。これは鬼と仏教の関係を考える上で重要な点であるが、従来は仏教からも文学からも民俗学からも、まったく注目されていない。そこで宗教民俗学的な考察を加えておけば、さきにのべたように、山神を鬼とする宗教概念があったことを、ここで再確認しておく必要がある。この仮説は「鬼むかし」や「鬼一口」の昔話を解く上の重要な鍵、と私は信じている。
 すなわち比叡山や高野山、大峯山などの山神は、伝教大師や弘法大師、役行者[えんのぎょうじゃ]の開山以前から先住していたのである。のちにのべる鞍馬山にも延暦15年(796)以前の縁起には、山神の鬼がおったことがのべられており、今も奥之院の「魔王尊」として、絶大な信仰をあつめている。ところが高僧や行者がその山を開いて伽藍や神社を建てると、仏法の守護神すなわち「護法善神」となって、僧侶の身辺の守護霊であるとともに使役霊となってしまったものと、私はかんがえている。
 

p.24〜25
 この観念構造で、役行者の従者に前鬼[ぜんき]・後鬼[ごき]という2人の鬼、または五鬼という5人の鬼があって、その子孫が前鬼(上北山村前鬼)と後鬼(天川[てんかわ]村洞川[どろがわ])の山伏村をつくってきたと信じられている。また前鬼の村は五鬼の子孫であって、五鬼熊、五鬼童、五鬼上、五鬼継、五鬼助が、不動坊、行者坊、中之坊、森本坊、小仲坊の先祖であるという。おなじように比叡山の各所にも多数の山神(山王)が先住していたが、伝教大師の開山で守護霊となったり、それに甘んじない山神は他の山へ移ったとおもわれたらしい。その1山神が丹波の大江山に移って酒呑童子になった、という伝承があったことは謡曲「大江山」でわかるのである。

p.25〜26
 このような宗教民俗学の伝承分析がなければ、「一児二山王と立て給ふは、神を[(も)]避くる由ぞかし」という文章は理解できない。酒呑童子という鬼が、もと比叡山に住んでいたことについては、
  われ比叡の山を重代[(代々)]の住家とし、年月を送りしに、大師坊[だいしぼう]と云ふえせ[(似非)]人、嶺には根本中堂を建て、麓に七社の霊神(日吉山王[ひえさんのう]社)を斎[いは]し無念さに、一夜に三十余丈の楠となつて奇瑞を見せし処に、大師坊一首の歌に、阿縟多羅三貘三菩提[あのくたらさんみやくさんぼだい]の仏たち、我が立つ杣[そま]に冥加あらせ給へとありしかば、仏たちも大師坊にかた[(騙)]らはされ、出でよ/\と責め給へば、力なくして重代の比叡のお山を出でしなり
とあり、酒呑童子は伝教大師と仏教に服属することを快しとしない不満分子であった。そこで九州の彦山、伯耆の大山[だいせん]、白山、立山、富士とめぐって、都に近い大江山に籠ったという。
 このような比叡山の隠れた歴史は、昔話や、それをもとにした謡曲がなければ、文献にはあらわれてこない。しかもこの伝承は、酒呑童子が山神の化身ながらも、比叡山の稚児[ちご](童子)として、僧侶の従者をつとめていたことも物語っている。鬼が童形の稚児であったことは「鬼一口」と「鬼啖い」に関係してくるが、比叡山でも山伏の世界でも、稚児は山神の化身と信じられていたらしい。これが「一児二山王と立て給ふ」の意で、山王の神々も稚児には及ばないというのである。「神を避くるよしぞかし」は「神も(稚児を)避くるよしぞかし」でなければ文章の意をなさない。

p.26〜27
 それではなぜ童形の稚児が山神(鬼)の化身とされるかといえば、それは、日本の巫道[シャーマニズム]では稚児が神の尸童[よりわら]になることが多いからである。ことに山岳宗教の託宣は、稚児を尸童として山神をこれに憑[つ]ける「神憑け」をおこない、その口から神意をきく。これをしめす祭文[さいもん]が三河花祭文にあって、稚児(中座)を中に坐らせておいて、山伏(聖)がそのまわりを巡って神憑けすることが歌われている。
  聖はまことの 経ひじり
  袈裟をば肩に かいかけて
  蓮華の花を 笠にきて
  夜は岩屋に 只一人
  朝は日の出の 行をする
  神の稚児[わかご]を 中に置き
  めぐり/\てせしおとす
 「せし」は宣辞[せじ]で、託宣のことであろうし、「とす」は「問ふ」の意味がわからなくなって、訛ったものとおもう。尸童(護法実[ごほうざね])を中に置いて、そのまわりをめぐることによって、神憑け(護法憑け)をして託宣をきく事は、いまも美作地方の「護法跳び」にのこっている。このようにして、山神と鬼と童子(稚児)の三重像で「大江山」の酒呑童子は構成されている。[略]



三 人を食べる鬼

p.29
日本の説話には「鬼一口」型が実に多いが、これは鬼に動物的な暴悪性を付与するとともに、もっとも残酷な殺し方を語ろうとしたのだとおもう。


四 『鞍馬寺縁起』の鬼神
p.30
 「目一つの鬼」という観念は山神から出たもので、山神は鬼として表象されるとともに、山姥とか山爺(山父)、山男、天邪鬼などとして昔話に出てくる。このような山神としての鬼が人を食べようとした話は、仏教の縁起談としては、『扶桑略記』が延暦15年の条に出す『鞍馬寺縁起』にある。これなどは、神話の人を喰う鬼が寺社縁起にもちこまれて、それから助かるのは神や仏のお蔭であった、という霊験談に転じた例である。これがもう一転すると、大江山のように人を喰う鬼から助かるのは勇士の武勇や知略による、という人間中心の昔話になるのである。

p.30〜31
 この縁起は2つの部分から成っていて、前半は、造東寺長官藤原伊勢人が観音を信仰し、観音をまつるよき寺地をさがしていると、夢で貴船明神から京都の北山を教えられ、馬を歩かせて行くと霊地があって、そこに毗沙門天像が落ちていた。そこで伊勢人は鞍馬寺本願となって、毗沙門天堂と観音堂を建てたというのである。そして縁起の後半では、この山中で一修行者がそのお堂の側で焚火をしていると、鬼神が出てきて、この修行者を食べようとした、とあり、ここに鬼一口のモチーフが使われている。
  修行の禅僧、堂羽に来宿し、夜暗を破りて火薪を敲く。夜、参半に及び、鬼神出で来る。其の形、女に類す。火に対して居る。禅僧恐畏す。鉄杖を焼いて鬼の胸を衝く。忽焉[たちまち]に逃げ去る。即ち西谷の朽木の下に隠る。鬼即ち近づき来り、口を開いて噉[くら]はんと欲す。時に禅僧、毗沙門を念ずれば、朽木忽ちに顚[たふ]れて、悪鬼を打ち殺す。天王の威力霊験、掲焉[けちえん]たり。
 
p.31
 寺社縁起ではその山にすでにまつられていた山神は、仏教的開山の高僧や山伏に降参してその山を譲り、その山の守護神(護法善神)になったり、高僧の従者(金剛童子)になったりする。またその山神をまつっていた山民や狩人は、その山の雑役者(承仕[しょうじ]、行人[ぎょうにん])になってしまう。これは山岳宗教の縁起に共通したタイプであるが、『鞍馬寺縁起』では、この山神の鬼の奥之院に祀ったことは書いていない。しかし、庶民信仰ではこの魔王尊の方に強烈な信者があって、ここに徹夜参籠するものが今に絶えないので、寺としても粗末にはできないのである。


五 山姥問答
p.32〜33
 『鞍馬寺縁起』の鬼神が山姥であった縁起は、「山姥問答」というタイプの昔話になる。私がここに『鞍馬寺縁起』を出したのは、このタイプの昔話のオリジンが縁起にあることを示そうとするためである。「山姥問答」はもっと細分すると「山姥と炭焼」や「山姥と桶屋」「山姥と石餅」などという話になる。


p.33
 昔話の筋は、炭焼または猟師、あるいは桶屋が山の中で焚火をしていると、その向こうに山姥があらわれて火にあたる。縁起の禅僧が炭焼や猟師におきかえられたものであることは、誰にでもわかる。桶屋がこれに加わったのは、箍[たが]が話のファクターに必要だったからである。そこで炭焼は何とかして逃げようとするのだが、自分の考えることはすっかり言いあてられるので、足がすくんで逃げることができない。[略]まず「山姥は恐ろしい」と思うと、山姥は「お前は山姥は恐ろしいと思ったな」と言いあてる。「山姥に喰われるのではないか」と思うと、「お前は山姥に喰われるのではないか思ったな」と言いあてる。「どうしたらここから逃げられようか」と思うと、「お前はどうしたらここから逃げられようか思ったな」と言いあてる。もうこれで絶体絶命と思ったとき、焚火の傍にあったワッカ(輪かんじき)、もしくは炭俵の蓋や底にする木の枝の輪、あるいは箍が火にあぶられてパッと爆[は]ぜた拍子に、火の粉を山姥の顔に飛ばした。すると山姥は、「人間というものは思わぬ事をするものだ。これでは何をされるか分らない」といって立ち去った、という話である。

p.34〜35
話の筋は柳田国男編の『日本昔話名彙』の「さとりのわっぱ」の説明が要領がよいので、引用することにする。
  早く心学の資料となっているが、もとはこれも昔話であろう。昔、男があった。山奥へ炭焼きに行って、薪を集めて来て焼いていた。親爺[(男)]は深い山中に一人でいることが薄気味悪くなってきて、「恐いもんが出なけりゃよいが」と思った。するとどこからか「恐いもんが出なけりゃよいが」という声がして天狗が出て来た。親爺は恐くて恐くて「どうやって逃げたらいいか」と思っていると天狗はまた「どうやって逃げたらいいか」といって親爺の思っていることを皆言いあてる。それで親爺はもうぼんやりしてしまった。その時親爺の持っていた牛の鼻づる木が弾けて火をとばして天狗にかかった。天狗は「人間とは思わぬことをするものだ」と言い残して向うへ行ってしまった。
――兵庫県城崎郡三椒村(竹野町)――
 この採録はまことに要領がよいが、「さとりのわっぱ」といいながら「わっぱ」の説明がない。


六 童子と山姥

p.36
鬼も天狗も日本の庶民信仰としては、山神もしくは祖霊の形象化としてあらわれる場合が多い。その他いろいろの場合もあるけれども、その原質はここにあるといえるであろう。天狗が猿田彦と習合したり、山伏と一体化したり、烏天狗と鼻高天狗の面で芸能化する場合もあるが、山神が高僧や山伏の従者になったときは童子にある。『古事談』(巻三)の「浄蔵の飛鉢を天童取る事」などに見るように、それは鼻も高くない天童子で、そのような童子形の天狗は平安時代、大治5年(1130)銘の彫刻として、国東[くにさき]半島の修験寺院(今は天台宗)だった屋山[ややま]長安寺にのこっている。「太郎天」とよばれるこの山の天狗であるといい、美しい唐風装束に美豆良[みずら]の童子形である。これは山神が護法童子となった姿で、『信貴山縁起』の有名な「剣の護法童子」も童子形で命蓮[みょうれん]聖に使役されるのである。

p.37〜38
「山姥問答」の中の「山姥と石餅」も、実は寺社縁起の中にある。昔話の「山姥と石餅」は、山姥が子守に化けてきて子供を預り、その子供を食べてしまう。「鬼一口」の山姥化だある。その親は仇を討つために、河原の丸い石をとってきて焼いて、餅といつわって食わせる。山姥が、熱くて咽喉が渇くというので油を飲ませると、焼石餅の熱のために腹の中で燃え上って死ぬという筋である。この類話は福島県と静岡県、和歌山県、高知県、長崎県などにあるが、寺社縁起としては伯耆の『大山寺縁起』(巻下)に出てくる。この縁起は応永5年(1398)に絵巻物になったものであるけれども、詞書の洞明院本は鎌倉時代末期までさかのぼると推定される。その中に「山姥と焼石餅」があるので、もっと古い原話があるのであろう。
 この縁起では、伯耆大山の開創の発祥をなす「馬頭[めず]の岩屋」におそろしい優婆[うば](または優婆夷[うばい])がおり、山伏が柴燈の火を焚いているところに、夜中に出てきて胸を焙[あぶ]っていた。柴燈の火という柴燈護摩ではなくて、斎燈[さいとう](忌火)という聖火のことである。したがってそこに女性形の山神が出現したということであるが、これを鬼女視するようになった段階の縁起なので、験力の他界大山寺南光院の種智金剛房という大先達が、焼石餅を優婆に呑ませた上、油を呑ませて焼殺した話になっている。すなわち、山伏の験力と知恵によって山姥を退治したという話である。
  焼きたる石の丸なるを一反[ぺん]加持して、此の餅こそ胸の薬よとてなげやらる。左右[さう]無く取って呑む。(中略)其の後餅にはあめ[(飴)]こそよけれとて、大き成るかなまり[(金椀)]に油を入れさしつかはす。鬼女是を取つてずとのむ。口より焔を出しければ、高声[かうじやう]に火界の咒[しゆ]を誦して念珠[ねんじゆ]を磨り給ひければ、(下略)
と、修験道的に潤色されているが、これが「山姥と石餅」と同じ話源から出ていることは疑いがない。そして伯耆大山の開創縁起では、山神は金の狼として美保の浦から出現し、この山に猟師依道[よりみち]を誘引して、馬頭の岩屋で地蔵菩薩(大智明権現)とあらわれ、また変化して老尼(登攬尼)となったとある。この山神の変じた老尼が、ここでは山姥の鬼女としてかたられたのである。

p.38〜39
 このように見ると、「山姥と炭焼」「山姥と桶屋」「山姥と石餅」という「山姥問答」型の昔話は、そのもとが「さとりのワッパ」にあり、もう一段遡れば『鞍馬寺縁起』や『大山寺縁起』になり、その根源には山神のために聖火を焚くという山岳宗教の儀礼があったことがわかる。これに「鬼一口」のモチーフが加わることによって、いろいろのタイプの縁起談や昔話が派生したのである。このような派生説話は、山神、山霊の神観念の変化に対応して出来上ったものであることは、一々の昔話を検討すればあきらかにすることができよう。