以下、澁澤龍彦「付喪神」(小松和彦責任編集『怪異の民俗学② 妖怪』〔河出書房新社〕所収)から引用です。

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 ここだけは、よく引用されるのでご存じの方も多いと思うが、『付喪神記』の冒頭には、「陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑[たぶらか]す、これを付喪神と号すと云へり。 是れによりて世俗、毎年、立春に先立ちて、人家の古道具を払ひ出だして、路次に棄つる事侍り、これを煤払と云ふ。これすなはち百年の一年たらぬ付喪神の災難にあはじとなり」とある。花田清輝によれば、「小道具を鬼としてとらえたところに――そして、主としその種の鬼が、夜の闇をわがもの顔に占領しているとみたところに、いかにも室町時代らしい『百鬼夜行』にたいする唯物論的な解釈があるのではなかろうか」ということになるが、私の考えは、花田のそれといくらか違う。これは唯物論的解釈などというものではなく、むしろ明らかにフェティシズム的解釈と考えるべきだと思うのだ。

 古代的なフェティッシュの世界とは、とりも直さず、記紀に描かれた「葦原中国は、磐根[いはね]・木株[このもと]・草葉[くさのかきは]も、猶能く言語[ものい]ふ。夜は、熛火[ほほ]の若[もころ]に喧響[おとな]ひ、昼は五月蝿如[さばへな]す沸き騰る」といった世界であろう。『出雲国造神賀詞[いずものくにみやつこのかむよごと]』の一節には、「夜は火瓮如[ほべな]す光[かがや]く神あり」とあるが、私には、これこそ山野を浮遊する古代の霊魂そのものの表現のように思われる。また、ワルプルギスの夜を飛びまわる鬼火のようなものだと思えばよろしかろう。

 時代が下り、物質文明が進むにつれて、このフェティッシュの数がだんだん減ってくるのは当然であったろう。ひとびとが懐疑的になるとともに、それまで霊魂の宿るものと信じられていた物体から、徐々に霊魂が剝離脱落していくわであ。かくて霊魂は追いつめられる。――しかしそれと同時に、古代においては知られていなかった技術的生産物に、行き場を失った霊魂が、新たに宿るという現象も起こるのではないか。つまり、追いつめられた霊魂が新しい隠れ家を発見するのである。それまでは隠れ家として、岩石草木のような自然物か、さもなければごく単純な、玉とか鏡とかいったような生産物しかなかったのに、技術の進歩とともに、複雑な道具が作り出されて、かえって霊魂の住むところが見つかったのである。そもそも道具は人間の一部だが、道具に対する人間は、いつも自然に対する人間の模写のごとき関係になっていることを思えば、この道具がやがて自然に取って代って、霊魂の住みどころとなる成行きは想像するに難くあるまい。端的に言えば、道具は自然の代替物、第二の自然なのである。だから容易にフェティッシュになる。室町時代の器物のお化けは、要するに、そういうものではないかと私は思っている。

 すでに早く、王朝末期の『今昔物語』の時代にあっても、追いつめられた小さな霊魂たちが、いろいろな物体のなかにもぐりこんだという事件は報告されていた。巻27の「霊鬼」篇に、「冷泉院の水の精の語」(第5話)をはじめとして、「桃園の柱の穴より児の手を指し出して人を招きたる語」(第3話)や、「東の三条の銅の精、人の形と成りて掘り出されたる語」(第6話)や、「鬼、板と現じ人の家に来て人を殺せる語」(第18話)や、「鬼、油瓶の形と現じて人を殺せる語」(第19話)などの怪異譚が見出されるが、これらは水とか、柱とか、銅器とか、板とか、油瓶とかいった物体あるいは道具のなかに、浮遊する「小さい神」(折口信夫の表現)である霊魂がもぐりこんで、ひとびとに危害を加えたという例である。これらの小さな神たちの散発的な叛逆が、やがて組織された大集団となって、室町時代の「百鬼夜行」のパレードにまで発展するわけである。

 『付喪神記』では、煤払いという名目で、洛中洛外の家々から棄てられた古道具どもが、1箇所に集まって、不穏な共同謀議を凝らすところから物語がはじまる。それは不当に解雇された労働者たちが、会社に対して実力行使の闘争を展開しようとするのに似ている。すなわち、「さても我等、多年家々の家具となりて、奉公の忠節を尽したるに、させる恩賞こそなからめ、剰[あまつさ]へ路頭に捨て置きて、牛馬の蹄にかゝる事、恨みの中の恨みにあらずや、詮ずる所、如何にもして妖物となりて、各[おのおの]仇を報じ給へ」と。このあたり、下積みの苦労を重ねてきて報いられなかった古道具たちの、根深い怨恨がよく表現されていると思う。一座のなかで、最初は仲間割れも起ったが、やがて衆議一決して、みんな化けものになることに意を決する。化けものになるには、「須[すべから]く今度の節分を相待つべし、陰陽の両際反化して物より形を改むる時節なり、我等その時身を虚にして、造化の手に従はば妖物と成るべし」と教えられる。
 こうして節分の夜がくると、「各[おのおの]其の身を虚無[こむ]にして、造化神の懐に入る。彼等すでに百年を経たる功あり、造主に又変化の徳を備ふ。かれこれ契合して忽ちに妖物となる。或は男女老少の姿を現はし、或は魑魅悪鬼の相を変じ、或は狐狼野干の形をあらはす。色々様々の有様、恐ろしとも中々申すばかりなり」という次第である。
 古道具の化けものどもは、かくて住所を船岡山のうしろ長坂の奥と定めて、そこに移り住み、ときどき京の白河へ出ては、人や牛馬をさらい、肉の城を築き、血の池をつくって、飲めや歌えの歓楽に日を送っていた。まるで大江山の酒顚童子の一味のようである。或るとき、化けものどもは、「わが国では昔から誰でも神道を信じている。われわれも造化神に形を授けてもらったのだから、神道の神を信じ、祭をしなければならぬだろう」ということになって、変化大明神という神社をつくった。神主や神楽男なども、それぞれ選定した。そして御輿[みこし]を造り、山鉾を飾って、卯月はじめ5日の深更に、京の一条を東へ練って行った。いよいよ百鬼夜行の出発である。
 たまたま、この化けものどもの深夜のパレードにぶつかったのは、臨時の除目[じもく]を行うために参代しようとしていた関白殿下であった。お供の者はいずれも驚いて地に伏したが、関白殿は少しも騒がず、車のなかから、化けものどもの行列をはったと睨みつけた。すると、ふしぎなことに、関白殿の肌のお守りから火が吹き出し、それがみるみる無量の炎となって、化けものどもに襲いかかったので、彼らはたまらず、こけつ転びつ、大騒ぎをして逃げ散ったというのである。この関白殿のお守りというのは、言うまでもなく、昔から百鬼夜行の化けものを退散させるのに絶大な効力があるとされた、例の尊勝陀羅尼である。
 『付喪神記』の物語は、これだけで終ってしまうわけではなく、さらに化けものたちが心機一転して、これまでの乱行をすっかり後悔し、仏門に入って修行を積み、それぞれ成仏したという筋の下巻がついているのだが、この宗教臭の強い下巻の方は、当然のことながら、私たちにとって上巻ほどには面白くない。しかし、これによっても分る通り、百鬼夜行は陰陽思想を神道思想の合の子であるとともに、さらに仏教思想をも加味しているのだ。[略] 
 ちなみに、同じく『御伽草子』の一つである『化物草紙』に出てくる、いかにもフェティッシュめいた小妖怪についても、簡単に紹介しておこう。『化物草紙』は5つの怪異譚の寄せ集めでらうが、そのうちの2つは完全に器物の妖怪の話であり、最後の1つも、まあどちらかと言えば、そっちのほうに属するのではないかと思う。
 九条あたりの荒屋敷に住住居している女が、ひとりで栗を食っていると、前の囲炉裏[いろり]から自い手がぬっと出て、栗をくれという身ぶりをする。一つやると、また手を出す。それを四五遍も繰り返して、やっと終った。翌日、囲炉裏の下を探ってみたら、小さな杓子が落ちて挟まっていた。――次の話は、これも女がひとりで夜中に念仏していると、 遣戸[やりど]の隙から、耳の高い法師が頭を少し出して、幾度も幾度ものぞきこむ。翌晩もっまた同じようなので、ふしぎでたまらず、朝になって探してみると、古銚子の柄の折れたのが転がっていた。――もう1つの話は、或る山里にひとりで住んでいた女が、あまりに心細いので、「誰かきて夫になってくれ」と独語すると、夕方、弓矢を持った男がきて、泊って行った。それから毎晩やってくる。或る朝、男が帰るとき、衣に糸をつけておいた。女がその糸をたどってゆくと、それは田のなかの案山子[かかし]であった。
 この最後の話が、三輪山の大物主と活玉依毘売[いくたまよりひめ]の糸巻き式の説話から出たものであることは明らかだが、それにしても相手が案山子というところは出色であろう。『古事記』に出てくる久延毘古[くえびこ]以来、案山子は神と人間、人間と器物の合の子ともいうべき存在だからだ。一方、三輪山の大物主は、もともと人格を具えず、どこにでも出入りする目に見えない精霊(もの)の王みたいな神なのだから、いわば偏在するフェティッシュの総元締めのようなものであり、『化物草子』の5つの怪異譚の最後に、その影がちらりと掠めるのは、いかにも当を得ているような気がしないこともない。

 百鬼夜行の化けものを退散させるのに、尊勝陀羅尼の80数句を筆写したものを身につけているのが、何より有効とされていたことは前にも述べたが、それよりももっとはるかに手軽で便利な、一種の呪文のようなものも語り伝えられていた。洞院公賢の『拾芥抄』上諸頌部第十九に「夜行夜途中歌」として「カタシハヤ、エカセニクリエ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」とあるそうだ。この意味不明な31文字を、口のなかでぶつぶつ唱えていれば、たちまち化けものどもは退散するというわけなのであろう。おそらく、当時の貴族や女房も、暗い夜道や家のなかで、あやしい物の影におびえながら、この文句をしばしば誦したことでもあろう。

 百鬼夜行図は、江戸時代に入ってからも、土佐派、住吉派、狩野派に属する画家たちによって幾度となく繰り返され、やがて江戸中期の鳥山石燕によって集大成され、さらに明治の河鍋暁斎にまで持ちこされた。室町時代にはじまる日本の妖怪画の伝統は、これをもってしても、なかなか馬鹿にはならないことが理解されるであろう。しかし器物の化けものの絵画的表現は、必ずしも日本の妖怪画の伝統のみに属するものではない。『付喪神記』の時代からおよそ百年の隔たりを置いて、ヨーロッパでも、同じような表現の行われたことが知られているのだ。このことを最初に指摘したのは、リトアニアの中世美術史家ユルギス・バルトルシャイティスである。しかも彼は、器物の化けものを世界で最初に描き出した名誉を、日本の室町時代の土佐派の画家にあたえている。『幻想の中世』から、その部分を次に引用してみよう。「私たちに残されている器物の化けものの最も古い表現は、中国ではなくて日本のものである。土佐光顕作とされている、魔物に襲われた頼光の像は、四天王とともに妖怪と闘った武将を示している。武将は嵐の夜、一個の髑髏にみちびかれて、或る邸の隅に座を占めたのである。男の表情は修道士のように平静である。しかしそのまわりでは、ふしぎな気配が起りはじめている。霊や化けものが目をさまし、彼の方へにじり寄ってくるのだ。魔物や獣が深い夜の闇から浮かびあがってくる。と同時に、器物どもが隊を組んで行列をはじめる。鉢が逆立ちをして、手首をはやして駆け出すかと思うと、鍵穴の部分に眼と口のある箱が、その下から人間の身体をはやして歩き出す。また、鞘におさまった小刀が、2本の小さな足をはやして、ちょこちょこと走り出す。まさに『誘惑』の図であるが、これは西欧の大作品より百年以上も前のものなのだ。」
 バルトルシャイティスは明示していないが、ここに引かれている伝土佐光顕作品というのは、もちろん『土蜘蛛草紙』のことであろう。さらに引用をつづける。
 「土佐光信作とされている『百鬼夜行』図では、この器物どもの一大集団が繰り出される。シンバル、壺、水差し、皿などが、魔物の肩や頭の上にくっついて走りまわる。よく似た怪物どもが、この日本の画家と同時代に生きた、ボッシュの絵のなかでも暴れまわる。オックスフォードのデッサンでは帽子が、ウィーンの『最後の審判』では鐘が、また別の絵では柳の籠が、人間の身体と結合して動き出す。これらの怪物どもは、少しも場違いな感じをあたえずに、すべて極東の仲間たちの集団に合流し得る連中だ。」