電光石火の動き。居合。
居合の稽古が設定する戦闘場面で、状況の想定に次のようなものがあります。
相手が既に抜刀(既に刀を抜いてかまえている)して立っている。それに対して、こちらは刀は鞘の内のままで、かつ正座(座構えという形で行うこともあります)して対峙している。
これは、普通に考えて実際のところ、相当に絶対絶命な状態だと思います。
このような極限の状況下で、相手を斬り倒す、戦闘不能な状態にする為に、いったいどういう身体技法を駆使するのか?。
それがどのように型として体系化されてきたのか。
前回の投稿で書いた、花道、茶道、武道、舞踊、の中から自分には、これがいいのではないかと思ったもの、それが居合の稽古がある古武術でした。
実はこういった模索をしていた頃、並行して、定期的にゲシュタルト療法のセミナーにも参加していました。
ゲシュタルト療法は自身の身体の中に生じている感覚にフォーカスして、心の内に現実に存在する未解決なことを明らかにしてゆくというものです。
私はそう理解しています。
セミナーでは、ワークと呼ばれる、クライアント(被験者)とファシリテータ(クライアントをサポートする人)との、ある種の臨床の場面に参加します。
ちなみに自分はクライアントにほぼ毎回、積極的に名乗りをあげていました。
しかしながら、ある時から、自分の中で、行われているをワークを左脳的に捉えようとする。私の場合は仏教の枠組みを使って説明を試みようとする、ああ、これはこういうことなんだ、という自分なりの勝手な解釈を行う。はっきり言って慢心ですね。
若しくは、これは本当にあくまでも、自分個人として感じたことで、かつ毎回ではありませんが、どうもワークが言葉が先行して進行されているような気がする、そんな思いがつのってきました。
私は思いました。これは、自分にはもっと身体の運用をフルに動員して、余計な意識が生じないものに取り組む必要がある。と
。。。次回に続きます