以前も書きましたが、とある自治体で古い公文書を拝見する機会を得たことがあります。


幕末から平成まで、内容も様々でした。


明治から大正の文書だと、教科書で習うような人物が、総理や閣僚で登場し、その署名と印が押されてます。

例えば、山縣有朋、井上馨、桂太郎、西郷従道、大隈重信、松方正義、板垣退助、尾崎行雄etc.

こうして見ると、多くが薩長の出身者で、藩閥政治という言葉を改めて思い知らされます。


たかだか地方の小さな自治体とは言え、いま以上に中央集権的な帝国憲法下では、全てが霞ヶ関にお伺いをたて、指示を仰がねばならなかったんですね(←今もそんなに変わらない?w)。



使用されている紙については、総じて、明治から大正の初めにかけては、和紙で作製されており、よほど酷い保管さえしてなければ、状態は良好です。

他方で、昭和20年を挟んだ時期は、紙質が極端に悪く、当時の物資不足を物語ってます。

公文書用の紙の質にすら窮するような国が米英相手に戦争しようとは、よくもまあ思ったものだと、後世の人間だからかも知れないですが、改めて思いました。


今回、紹介したいのは1936年(昭和11年)のある村の文書。

因みに、その村は今は存在せず、私も行ったことも住んだこともない、今回初めて名前を聞いた村です。

個人情報は含まれてないので、念のため。


内容はというと、村の道路を整備したいので、ついては大蔵省より借り入れをしたいというもの。

日付は「昭和11年3月7日」、宛先は「大蔵大臣 高橋是清殿」となってます。


但し、日付には線が引かれ、10月に変更されており、宛先の「高橋是清」にも線が引かれて消されてます。


勘のいい方はお気付きかと思いますが、この直前の2月26日のいわゆる「二・二六事件」で、高橋は殺害されてます。


要は、この文書は事前に作製されていたものの、高橋が暗殺されたので、彼の名前を消し、そして恐らくは事態の収拾で東京それどころではないだろうということで、日付も先送りにされたものと推測されます。


以下は、大学時代にうけた講義の内容から:



時の総理は海軍大将の岡田啓介

もはや政党内閣が組閣されなくなった時代、バランス感覚に富み、米英との対立に反対し、軍縮に積極的であった岡田を、元老の西園寺公望が首相に推して成立した内閣でした。

軍縮と対外拡大の抑制を旨とする岡田は、早晩陸軍の強硬派の目の敵とされ、そして二・二六に至るわけでした。


岡田自身も襲撃されましたが、義弟が身代わりで犠牲になり、すんでのところで難を逃れました。

ただ軍縮による国力増強という点で盟友であった高橋や内大臣の斎藤実(彼も海軍出身)を失いました。

また、同い年の海軍出身者で、侍従長であった鈴木貫太郎(彼もまた不拡大方針をとり、青年将校から狙われてた)も襲撃され、重傷を負いました。




結局、岡田内閣は3月9日に総辞職となりました。



ただ、岡田の真価が発揮されたのは、太平洋戦争に突入してから。

戦局が悪化し始めた昭和18年以降、首相経験者である重臣の一人として、東條内閣の打倒を画策。

昭和19年のサイパン陥落後も、なおも首相に居座ろうと内閣改造で乗り切ろうとする東條に対し、岡田は東條内閣の国務相で、戦争の継続を巡り東條と対立し、辞任の圧力を受けていた岸信介に対し、「絶対に辞めるな」と唆します。

帝国憲法では、首相に閣僚の任免権はなかったため、閣僚を辞めさせるには、本人に自発的に辞任させるか、一旦内閣総辞職するかしかなかったからです。

結局、東條は総辞職せざるを得なくなり、次の首相には東條ではなく、東條と同じ陸軍出身の小磯国昭が選ばれました。



いま一度の岡田の出番は、昭和20年に沖縄上陸を許し、終戦工作にも失敗した小磯内閣が総辞職した後の後任選びに際して。

岡田や、やはり海軍出身の元首相の米内光政は、戦争を終わらせる為に、二・二六事件で襲撃されたこともある鈴木貫太郎を首相に推します。

一方、徹底抗戦を主張する東條は「陸軍出身でなければ、陸軍はそっぽを向く」と述べ、「陛下の大命で組閣する者にそっぽを向くとは何事か!」と一喝し、東條を黙らせ、結局鈴木貫太郎内閣を成立させることに成功しました。



ずいぶん冒頭の話から逸れてしまいましたが、高橋是清が暗殺されたあの事件で、なんとか難を逃れた岡田啓介が、もしあの事件で命を落としていれば、日本の終戦はもっと遅く、かつ犠牲もさらにはかり知れないものになっていたのかも知れません。


歴史とギャンブルに「たられば」は意味が無いですが、色々と考えを巡らせる機会を与えてくれた、一寒村の公文書でした。




Android携帯からの投稿