誰かと誰かを別れさせること、
たとえ浮気している加害者が悪くても、
それは一線を超えているだろう…
もう20年、そんな意見が絶えることがないのが、別れさせ屋の業務です。
被害や精神的苦痛を受けている当事者 張本人、
もっと言えば、なかなか人生では味わえない、
限りなく大きな葛藤を経験した張本人にしか、
別れさせ屋の存在意義は、理解不可能なことだと思います。
男女のもつれが発展し、
人と人、感情と感情が譲らず対立し、いがみ合い、
時に親子の縁を切ってまでも、対立関係が急迫したり、
既存生活や財産を投げ打ってでも、譲れぬ事象が生じたり、
あい反する動機・欲求・感情が、よりますます関係をこじらせ、
たとえ、義理と人情と道理に背いていたとしても、
最終的には、何か決着点を見出し、選択せねばならず、
正道から逸れ、他人の力を借りてでも、
ある関係を別れさせるしかない…
そういう結果にたどり着いてしまう過程は、
経験者でないと想像しきれない側面も出てきます。
部外者であれば、アリエナイの一言で片付くことでしょう。
他に手があれば、別れさせ屋を無理に使う必要はなく、
別の手段や、耐え忍ぶことも選択肢として存在します。
商品でもサービスでも宗教でも法律でも、
賛否両論なことは、世の中に数え切れないほどあります。
工作もその一つなのだと思っております。
ある作品の中で、このように語っている方がいらっしゃいました。
「世の中には、人の罪で食べている、罪喰い人(ツミクイビト)がいる。
道徳から外れた汚物を食べて、体の奥深くに隠しておく。
そうすれば、組織以外のものが汚れることはない。
任務遂行上、与えられたミッションの道徳性を疑うこともあるだろう。
でも、それが仕事なんだ。」
と。
別れさせる工作には、似たような側面があるのかもしれません。