白湯の甘みに哲学のロックスターとヤヌスとニーチェの超人を思い出す。 | 『TMダイエット〜T理論と気功で頑張らずに痩せる!?』

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東京・新宿にて、「まといのば」公認でダイエットを中心にセミナーを開催しております。ブログにてそのお知らせをしております。

去年の11月に一時的に体調を崩していたときに、先生方から様々なアドバイスをいただきました(ありがとうございます!)。

 

いただいたアドバイスの一つが、先日のセミナーでも話題に出た『白湯』を作って飲むことでした。白湯というと僕たちはいわゆる「お湯」を思い浮かべますが、教えていただいたのはそれとは違う、アーユルヴェーダの白湯でした。

 

その白湯の作り方は、Ray先生のブログで公開されています。

 

(引用開始)

空焚きにならないことだけ気をつけて、ホンの15〜20分煮詰めるだけで、飲んだときにまるで甘露のような味わいの深い白湯が出来ます照れキラキラ

 

その白湯を飲むと、細胞の中に浸透していき、老廃物を洗い流してくれます(*^^*)

(引用終了)

 

この煮詰めた白湯ですが、11月の体調不良から回復した後はしばらく作っていませんでした(すいません汗)。ただ最近ゴールをガチャガチャと更新していると、ふとこの白湯のことを思い出してまた毎朝作って保温の効く水筒に入れて、余った分をマグカップに注いで飲むようになりました。

 

身体が芯から温まって、僕自身はカイロなど必要とせず今年の寒い冬を過ごしています。

 

この白湯ですが、不思議なことに何と甘いのです。もちろん元はただの水道水ですし、砂糖などは当然入れていません。でも、甘いのです。

 

(引用開始)

この白湯は薬は言い過ぎかもしれませんが、甘露のような存在なのです(*´艸`*)ラブラブ

 

でも、私たちの考え方からすれば、ただのお湯ですし、温度は変わっても成分は変わりませんコーヒー

(引用中断)

 

いわゆる科学的思考からすると、煮詰めただけのお湯が身体にいいだけでなく甘みすら感じるのはあり得ないことです。化学的知見からするとナンセンスでしょう。

 

「まといのば」本家主宰はそれを現代科学の『浅はかさ』だとおっしゃったそうです。

 

(引用再開)

本家主宰は

「それが現代科学の『浅はかさ』なのかもしれない、もしくは粗雑さなのかもしれない」

とスクールでも言っていましたウインクひらめき電球

(引用終了)

 

煮詰めた白湯を通じて僕たちは身体を中から温めてゆるめ、毎朝起きるのが楽になったりと、健康になっていきます。科学では(まだ、あるいは永遠に)解明できていない人間の叡智をそこに感じます。

 

甘味すら覚える白湯を飲みながら、僕たちは一斉を風靡した哲学界のロックスターのことを思い出します。

 

彼は「世界(=全体)」は存在しないと断じます。我々の馴染みの言葉で言えば、「任意の概念と存在を包摂する全体」はないということです。

c.f.なぜ世界は存在しないのか。そしてなぜユニコーンは存在するのか?(マルクス ガブリエル) 2019年02月11日

 

そして稀代の物理学者ホーキング博士を物理学の宇宙を「世界(全体)」と同一視してしまっていると批判します。

 

 イギリスの物理学者スティーヴン・W・ホーキングは──知識人としてはかなり過大評価されているように思いますが──少し前にこう述べていました(以下の引用が、たんにホーキングの無知をさらけ出した恥ずかしい発言ではなく、じつは読者にたいするホーキングの知的な挑発としても理解されるべきものであってくれれば、と願わざるをえません)。 

この世界は広大で、ときには優しく、ときには残酷なものです。わたしたちはこの世界のなかを生き、自らの頭上に拡がる果てしない天空を眺めながら、数多くの疑問を抱き、問い続けてきました。わたしたちのいるこの世界を、どのようにすれば理解できるのだろうか。じっさいのところ宇宙はどうなっているのか。この現実のありのままの姿とは、どのようなものだろうか。この現実のいっさいは、いったいどこから来たのか。宇宙には創造主が必要だったのだろうか。わたしたちのほとんどは、人生のほとんどの時間を費やしてこうした問いに頭を悩ませたりはしません。しかし、こうした問いにしばし頭を悩ませる程度のことなら、わたしたちのほぼ全員にその経験があるはずです。こうした問いは伝統的には哲学の問題ですが、哲学はすでに死んでしまいました。哲学は、現在も発展を続けている科学──とりわけ物理学──についてこられませんでした。そこで科学者が、知の探求における発見の炬火の担い手となったのでした15。  

ホーキングは、世界──つまり、わたしたちを包摂している全体・総体・全体性──を宇宙と同一視しています。これにたいして哲学は、すでに長いこと(遅くともプラトンとアリストテレス以降は)物理学の対象領域という意味での宇宙と、わたしたち現代人が呼んでいるところの「世界」とを区別してきました。すでに見たように、宇宙はひとつの存在論的な限定領域ですが、ホーキングはそのことに気づいていません。ホーキング(物理学者としての)をめぐってはすべてが物理学になってしまうのですから、無理もありません。

(「なぜ世界は存在しないのか」)

 

哲学界のロックスターはこのようにホーキングを哲学の立場から批判します。この批判は妥当だと思いますし、白湯に甘味を感じた後は、科学的に解明されていないからといってナンセンスではないと思います。

 

 

ただこの哲学界のロックスターも後々あまり科学に明るくないことが判明してしまいます。個人的にかなりガッカリした記憶があります。

c.f.天球が回転して、星々が動いていると思っていたけど、実は動いているのは僕らの方だった 2019年11月29日

 

なので一流の科学者であり哲学者である方のホーキング批判の一部を紹介します。マルクス・ガブリエルとは文脈が違いますが、哲学者の立場からホーキングを批判されています。

 

「今日まで、科学者はずっと、宇宙が何であるかを説明する新しい理論の展開に心を奪われていて、なぜと問うことができないでいる。一方、なぜと問うことを商売にしている人たち、つまり哲学者は科学理論の進歩についていけないでいる」(同240ページ)

これもまた、『ホーキング、宇宙を語る』の一文です。しかし、私はホーキングのこの結論に疑問を抱くのです。私は脳機能学者を名乗っていますが、正確にいえば「機能脳科学者」であり、その仕事の半分は哲学で、半分は自然科学です。

科学者であり、また哲学者でもあると自負していますから、この一文にある科学理論の進歩についていけないということはありません。宇宙について語るに当たり、その両者の目線は欠くことのできないものであり、とりわけ哲学を理解することで、宇宙にまつわるより多くのことが解明できるとも思っています。

ですから、今回はあえて哲学者の立場で語ろうと思うのです。

「宇宙はなぜ存在しているのか」

その質問の答えは「寂しいから存在している」のです。

(「苫米地英人、宇宙を語る」)

 

 

この著作の中で哲学者の立場から苫米地博士は宇宙のカラクリを解き明かされています。必読です。

 

しかし僕たちはまた僕たちは迷います。科学的に解明されていないからといってナンセンスではないことはわかったけど、かといって伝統や社会一般からすればオカルトとも見做されるものにどう向き合えばいいの?、と。

 

「まといのば」本家主宰はヒーラーはローマ神話の双頭の神、ヤヌスであれとおっしゃいます。

 

 

すなわち、ゴリゴリの科学至上主義者の頭と、伝統やオカルトの信奉者の顔の二つを持てということです。

c.f.2つの顔を持つということ「ヤヌス考」 2012年09月23日

(引用開始)

一つ目の顔が科学者としての顔です。科学者というよりは、科学原理主義者とも言うべき、ゴリゴリの科学至上主義者だと思ってください。もちろんきちんと科学をしていれば、原理主義とか至上主義にはならないのですが、それはそれとして、1つの極端な人格として想定しましょう。たとえば冗談でディフォルメしたO教授と言ったりします。すべての気功や神秘体験のカラクリを喝破する存在です。科学で説明できないことは存在しないという立場です(説明できないのは、まだ我々が無知だからということです)。
この視点(人格、顔)はきわめて重要です。
科学の光を差し込まないと簡単にオカルトに堕します。
科学無しでは抽象度が上がりません。

もうひとつの顔がオカルティストとしての顔です。伝統的な気功師と考えても良いかもしれません。気功師の顔です。いわば道教的な世界観があり、ア・プリオリが自明にある存在です。
たとえば気功をするときは、気に対する圧倒的な実在感と確信が無ければ効果は上がりません。クライアントに対しても、神のごとく振る舞うことです(簡単に切れてすぐ殺してしまうヤハウェではなく)。絶対者として振る舞うということです(その意味で父権的なパターナリズムの治癒効果は高いのです)。実際に気功を使うときは傲岸不遜さが不可欠です。別な言い方をすればオカルティストになりきることが不可欠です。苫米地理論で言えば「確信」です。
確信の強さが気の強さです。

この2つの人格、2つの顔をヒーラーは持ちます。
もちろんここで言うヒーラーとは情報を操作することで人の心身を大きく変える存在です。ですから医師やセラピストや整体師、コーチも広義のヒーラーとして考えます。
ヒーラーは2つの顔をヤヌスのように持ちます。

(引用中断)

科学的理論的に物事や現象を考えると同時に、ヒーラーはクライアントを望ましい方向に書き換えるのが仕事ですから、時として不遜なオカルティスト、絶対者として振舞うことが要求されます。よく言われるジョークですが、「手術は成功しましたが患者は死にました」というわけにはいきません。

また科学至上主義の顔とオカルティストの顔を2つ持っていると、僕たちはついそれをひとまとめにしようとしてしまいがちですが、本家主宰はそれを戒められます。またあえて2つのままにしておいて認知不協和を引き起こせとおっしゃいます。ルー・タイスのようです。

(引用再開)
2つ...。

2つあると我々はついLUBを取りたい衝動にかられます。
衝動というのは文学的な不正確な言い方です。2つの別な概念があると脳は勝手にそのゲシュタルトを取る(LUBを取る)のです。それが認識するということです。
ゲシュタルト群化能力は人間だけではなく生命の機能の1つです。

しかしそれをあえて2つのままで別々にしておきます。
きわめて不快な認知不協和に陥りますが、そのままにします。

これには2つの理由があります。認知不協和こそがエンジンであるということです。ゴールと現状との2つの臨場感が並立する認知不協和がゴールへ向かう推進力になります。同じ事です。科学者とオカルティストの2つの背反する立場が大きなエネルギー源となります。

これを安易に統合するとLUB(least upper bound)ならぬGLB(Greatest Lower Bound)になってしまいます。堕ちているのに「新しい」と判断してしまう妄想にとらわれるのです。
科学というのはその粋はきわめてIQの高い人間が血反吐を吐きながら創りあげる概念の構築物です。その構築物を安々と超えられると考える傲慢さは理解しがたいものがあります。
ですから、我々にできるのは科学への敬意や先達への敬意を払いつつ、その思考とオカルティストとしての思考をたえずスイッチすることです。切り替えることです。

それが「ヤヌス」です。

(引用終了)

 

僕たちは安易な結論に飛びつかないように日々修練していくことです。さもなければスピリチュアルや神秘体験の闇に溺れて朽ち果ててしまいます。

 

このあり方はニーチェの超人を思い出させます。人間と猿の間を綱渡りする、あの超人を。

c.f.夜中に靴を造っておいてくれるこびとさんに宿題を任せる 2012年09月26日

 

白湯の甘みから随分と遠くまで来てしまいました。この辺で記事を締めようと思います。

 

ただ繰り返しになりますが、僕たちがヒーリングで書き換えをしたいときに参考や参照になるのは、いわゆる科学だけではないということです。アーユルヴェーダのような巨大な伝統や、宗教や哲学といったものも非常に書き換えには有効になります。

 

来月のセミナーではそれをガッツリ取り組んでいきましょう!

 

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