(私の子供時代の話はこちらから↓)
34歳。
娘を産んだ頃の私は、母や宗教団体や、それまでに関わり合った人たちや環境に対する恨みや辛みでいっぱいになってしまっていて、しかもその状態に慣れてしまい違和感すら感じられない有り様でした。
そして、人の目や意見を気にして、人や状況を分析し、いかに人と距離を保って賢く立ち回るかが最優先される考え方でいっぱいになってしまっていました。またその考え方で仕事では、ある一定の成功体験をしたと思っていたので、生き方を変える気もなくなっていた頃に、私の元にやってきてくれたのが娘でした。
産まれてきた娘のキラキラした輝きに満ちた純粋無垢な赤ちゃんの瞳を見て、当時の私は愕然としました。「この子に私が歩いてきた道を一緒に歩かせるわけにはいかない」と強く感じたのです。
しかしそれは、私自身が180度変わらなければならないことでした。
猜疑心の塊のように誰のことも信用できず、上辺だけの笑顔で自分を固めて、誰にも心の内をさらけ出すことなく、家にいる時は貝のように黙りこくって俯いているような、そして腹の中では常に怒りの炎が燃えたぎっている、そんな母親にこの子を預けるわけにはいかない…。
できることなら、いつも変わらず笑顔で優しく穏やかで、誰のことも信頼することのできる愛と感謝に満ちた温かい母親にこの子を育ててもらいたい…。
そう願えば願うほど、私は自分自身に落胆して生き方自体が分からなくなり、混乱し、仕事もできなくなっていってしまいました。進退極まるたびに、日に何度も娘がキレイな瞳で私に笑いかけてくれて、その度に私は正気を取り戻し、少しずつ前に進んでいくしかない頃でもありました。
当時の夫は、まだ夢を追っている最中で定職に就いておらず、家計を支えていた私が仕事ができなくなったおかげで、この時期は極貧状態。毎月やってくる督促状に怯える日々でもありました。
早く私を整えなければ、この子の人生も家族も崩壊してしまうと焦れば焦るほど空回りし、どんどん状況は悪化して追い詰められ、それでも変わることができない自分に落胆し、こんな自分が親になどなってはいけなかったのだと幾度となく激しく落ち込み身動きが取れなくなっていきます。
こんな人間になりたいわけじゃなかったのに
こんな人生を送りたいわけじゃなかったのに
と母や宗教団体や誰かや何かのせいにし続けて自己憐憫に浸り、不平や不満を募らせてばかりいては何も変わるわけはなかったのです。
私の人生の選択や決断は、どんな形であったにせよ私自身がしてきたことに変わりありませんでした。私自身が変わらなければ、私の人生は何も変わらなかったのです。
どんどん人生が詰まっていく恐怖の中、私はありとあらゆる専門相談機関を巡り始めました。しかしそのどれも私の心には響かず失望を味わい続けます。誰もが言う正論は知っているけれど、それに心が動かないから相談に来てるのに…と失望し続けている頃、私が唯一信頼していた人の勧めでスピリチュアルの扉をノックすることになります。
続きは不定期に更新します。
娘と私の歩いた道〜娘が私に教えてくれたこと〜(1)↓
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