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当初は4ドアセダンのみの設定で、デラックスモデルのヘッドランプはデュアルヘッドライトを採用しました。スタンダードモデルはデラックスのライトベゼルを流用し、外側寄りのみとした2灯でした。実際にはデラックスのスタイリングが本来の形態であり市場としてもデラックスが支持されたため、よく目にするコンテッサ1300はデラックスです。


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1965年には2ドア4人乗りの”コンテッサ1300クーペ”が設定されます。
クーペは引き続きエンジンGR100を搭載しますがエンジンの圧縮比を8.5から9.0に上げ、出力を65ps/5000rpmに強化、最高速度145km/hに引き上げられてコンテッサ900スプリントのモチーフをも採り入れました。
コンテッサ1300で議論となったサイドスリットはクーペでも付けられていませんでした。


【コンテッサ1300クーペ  主要スペック】 
◆型式PD100型 (Contessa 1300  coupe)
◆全長4,150㎜・全幅1,530㎜・全高1,390㎜
◆ホイールベース2100㎜
◆車重945kg
◆エンジン     GR100(65ps/5000rpm)
◆最大トルク  5.3mkg/2800rpm
◆変速機        4速MT
◆乗車定員     4名
◆最高速度     145km/h



当時の日本製乗用車の中でも性能やスタイルでも他社製品とも負けず劣らぬ優秀なもので少量ながら欧米へも輸出されました。

しかし当時ではフロントエンジンが主流となりリヤエンジン車はスズキフロンテなど僅かでした。独特な構造故に国内販売も振るわない折の1966年、日野自動車とトヨタ自動車が業務提携を発表しトヨタ自動車が日野・トヨタの小型車を、日野自動車が日野・トヨタの大型車を生産する事となり1967年、トヨタ製乗用車との競合回避のため、生産終了となりました。


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試作されたコンテッサ1500用エンジン 
日野オートプラザ
2016年7月25日


トヨタ自動車との業務提携により儚く散った日野コンテッサでしたが、現場は直前まで業務提携による生産中止を夢にまで思ってなかったようで、1966年には1,500ccのエンジンが試作され、コンテッサ1500として販売される予定でした。しかも図面を見れば単なるエンジンの換装ではなく、1965年の第2回日本グランプリでは惨敗した事もあり1962年には日野自動車内にレース専門部門として”第3研究部”を開設し更なるスポーツカー開発に邁進していきます。

1964年頃から量産車の開発とは別に、日野スプリント1300GTが試作されています。スタイリングは引き続きミケロッティによるものですが、その後のフェラーリ330GTへと続くものです。


日野スプリント1300GTのエンジニアングはアルピーヌに委託されて円筒バックボーンフレームにFRPのボディーが組み合わされており、やはりアルピーヌによってDOHC化された日野GR100エンジンを搭載しました。日野スプリント1300GTは、事前にスチールボディーがFRPボデー制作のための形状確認の目的でミケロッティの下で制作されている。冷却風の採り入れ方が、ルノー/アルピーヌ流のエンジンフード後端上面となっている。これはこれはアルピーヌによって欧州で数万kmにも及ぶテストランが繰り返されました。

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アメリカ遠征でのコンテッサ1300
後ろは初代日野レンジャーKM300



FRPボディーの個体は1966年のパリサロンに出品されて「HINO Sprint GT 1300」と紹介されている。
しかしトヨタとの業務提携により日野スプリント1300GTも全て水泡に帰し、日野オートプラザにある”幻のコンテッサ1500用エンジン”が夢半ばで散った日野モータースポーツの形見となっています。


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谷田部テストコースを走る
日野GTプロトタイプ
(1965年)

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日野GTプロトタイプ搭載された
競技用エンジン YE28

コンテッサ1300に搭載されたGR100を競技用エンジンに改装したものだが、ボア・ストローク74 × 74  総排気量1,273ccと全く異なるものだった。ツインオーバーヘッドカム、ウエーバー水平型ツインキャブレター、ツインディストロビュータ、ツインプラグ、ドライサンプを付けたパキパキのレーシング用エンジンだったが出力130ps//7500rpmを目指すが僅かに及ばなかったが欧米での


改良版YE28Aも完成するも間に合わず華々しい舞台に立てなかった。


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ヒノサムライ
1967年



日野自動車は1966年、トヨタ自動車との業務提携によりレーシング用を含む全ての乗用車部門を放棄し、日野プロトGT-Pは廃棄処分の憂い目に遭ってしまう。
1967年の第4回日本グランプリにはポルシェ906や日産R380、ローラT70、フェアレディ2000、ダイハツP5が参戦、そのなかに”チームサムライ”というスカーレットのレーシングカーが持ち込まれた。
このクルマは”ヒノサムライプロト”。
ドライバーはシェルビー・アメリカンとピーター・ブロック。驚いた事にチーム監督は”世界のミフネ”こと大俳優:三船敏郎であった。
カリフォルニアの転戦中だった日野コンテッサGT車を見たドライバー兼デザイナーのピーター・ブロックは自ら設計開発を買って出た。日野プロトに搭載されたYE28や開発途中だったコンテッサ1600用エンジンも搭載出来るように設計されたが先述の通り日野レーシングカーは全て廃棄されたためコンテッサ1300クーペ用エンジンを改装して搭載した。1967年の日本グランプリに参戦するも地上高不足で車検が通らず出場出来なかった。

コンテッサ1300を最後に日野は乗用車の自主開発から撤退しますが、トヨタブランドの『ハイラックス』の設計・開発や、『パブリカバン』『カリーナバン』などの一部を受託生産することとなりました。その後乗用車生産は羽村工場で行われ、『ターセル』『コルサ』『カローラⅡ』で大ヒットとなった”カローラ三兄弟”も、実は日野自動車羽村工場で生産されたもので、現在もトヨタグループ3社(トヨタ自動車・日野自動車・ダイハツ自動車)により委託生産は続けられているのです。




閃光のように瞬いた日野モータースポーツが姿を消して三十余年、日野自動車は再びカーレースの舞台に戻ります。

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日野パリダカールラリー参戦車
日野オートプラザ
2016年7月25日

1991年、日野自動車は日野レンジャー4台をパリ・ダカールラリーに参戦し、初参戦ながら4台とも完走を果たします。
カマズ・ダズなどの大排気量のトラック群の中では小排気量ながらも上位入賞を果たし1995年にはカミオンクラス総合優勝を果たしました。
その後、日野自動車は総合優勝を期にパリ・ダカールラリーから撤退しますがドライバーの菅原義正は引き続き日野レンジャーを使用しパリ・ダカールラリーに参戦、2005年より次男の菅原照仁とともに日野レンジャー2台体制で出場するようになり、2007年のダカール・ラリーで主催者のASOより25回連続出場の表彰を受けました。

いまもなお、カミオン部門において中型車ベースの車輌ながらも大型車のモンスターカミオンと熾烈な戦いを繰り広げる菅原のレンジャーは「リトルモンスター」の名称で知られ、トレードマークの鯉のぼりをはためかせながら現在もダカールラリーで戦い続けています。