海外の反応 驚愕!米国・ハリスも驚いた江戸時代の古き良き日本にびっくり仰天 | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。


幕末から明治にかけて、欧米諸国から来て日本の人々の生き方を見た外国人の目には、貧しい人々まで幸せそうに映り驚いたようです。いったい欧米とは何が違うのか、それがわかり、そして、先人への愛おしさが溢れてくるような、そんなお話でした。

海外の反応  驚愕!米国・ハリスも驚いた江戸時代の古き良き日本にびっくり〖いいね日本CH〗  10:02
https://youtu.be/EQUoa0sCbno
【いいね日本CH】
内容書き起こし


幕末の日本

黒船によって武力で
日本を開国させたアメリカ

初代駐日公使として
送り込んだのが、
タウンゼント・ハリスだった。


ハリスは安政4(1857)年11月、
初めて江戸入りをすべく、
下田の領事館を立った。


東海道を上って
神奈川宿を過ぎると、
見物人が増えてきた。


その日の日記に、
彼はこう書いている。


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彼らは皆よく肥え、
身なりもよく、幸福そうである。

一見したところ、富者も貧者もない。
これが恐らく人民の本当の姿
というものだろう。

私は質素と正直の黄金時代を、
いずれの国におけるよりも多く
日本において見出す。

生命と財産の安全、
全般の人々の質素と満足とは、
現在の日本の顕著な姿で
あるように思われる。
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ハリス江戸入りの当日、
その日もこう書いている。

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人々はいずれも、さっぱりした
よい身なりをし、栄養も
良さそうだった。

実際、私は日本に来てから、
汚い貧乏人をまだ一度も
見ていない。
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欧米の貧乏民たちと比べて


日本を訪れた西洋人たちが、
日本人の幸福な生活ぶりに
驚いているのは、
当時の欧米社会と比較しての
ことであろう。


たとえば、フリードリッヒ・エンゲルスは
19世紀中葉のイギリスの

貧乏街の有様を
次のように描写している。

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貧民にはしめっぽい住宅、床から
水のはいあがってくる地下室か、
天井から雨の漏ってくる
屋根裏部屋が与えられる。

貧民には粗悪で
ぼろぼろになった衣服と、
消化の悪い食料品が
与えられる。

貧民は、休息も、安らかな
人生の享楽も許されない。
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工場主は子供を8歳ないし
9歳から、使い始める。

また毎日の労働時間は
14時間ないし16時間に
及んでいる。

また工場主は・実際に
手をくだしていた。
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 当時、来日した欧米人は
悲惨な下層階級の生活ぶりを
知っていたはずだ。

それに比べれば、
幸せそうに見えたようだ。





貧しくとも幸福に暮らす人々


明治10年代に東京大学の
お雇い教授を務めた

米国の動物学者
エドワード・モースは、
日本と米国の貧困層を
比べて、
次のように書いている。

「実際に、日本の貧困層は、
米国のような野卑な
風俗習慣を持たない」

「活気もあって結構
楽しく暮らしているみたいだ」



欧米では、貧乏人は
スラム街に押し込められ、
悲惨と絶望しかない。

しかし、日本では貧しくとも
幸福に見える。

それは、彼らの驚きであった。

どうしてそんな事が
可能になるのか?


欧米公使ヒュー・フレーザーの妻
メアリは明治23(1890)年の

鎌倉の海岸で見た
光景をこう描写している。

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 美しい眺めです。
男たちが海中に立ち、
銀色の魚がいっぱい踊る
網を延ばしている。

そして子供や、漁に出る
男のいない後家も、
老人たちも、漁師のまわりに
集まり、
彼らがくれるものに
籠をさしだす。

そして、市場に出せない
魚はすべて、
この人たちの手に
渡るのです。

物乞いの人にたいして
罵声もない。


見ていて良いものです。

そしてその物乞いたちも、
貧しいとはいえ、

絶望や汚穢(おわい)や
不幸の様相はないのです。

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「あわれな後家も」
「息子をなくした老人たち」も、

思いやりのある

共同体の中で
しっかり守られている。

平等な一員として
生きて行けた。

この
思いやりと
助け合いが、

貧しくとも幸せに暮らせた
理由であろう。


また、この国では、
ほとんど喧嘩を
している人をみない。

口論や喧嘩は、
利害の対立から生ずる。

思いやりと助け合いに
満ちた共同体では、
各自が自己主張を
自制するので、
利害の対立は少ない。


その結果、

争うことも少ない。




「自分たちが彼の分まで
頑張るから」



町中に住む人々の暮らしは
どうだろう。

明治11(1878)年に、
東北地方から北海道を
日本人通訳一人をつれて旅した
英国人イザベラ・バード。


 奈良県の三輪で、
3人の車夫から自分たちを
伊勢の旅に雇って欲しいと
頼まれた。


人柄もわからないので
断ると、一番年長の男が
「私たちもお伊勢参りが
したいのです」と訴えた。


体格が良くない人を
外そうとすると、
この男は家族が
多い上に貧乏だ、

自分たちが彼の分まで頑張る
からと懇願された

そして3人とも雇うことになった。


「人力車夫が私にも、
お互いに対しても
親切で礼儀正しかった。

これは、私にとっても
嬉しかった」と記されていた。


 町中でも、助け合いが
弱者を護っていた。

物質量には貧しくとも、

欧米のスラムの孤独、絶望とは、
無縁のようだ。





幸福な共同体

 
 このような共同体は、
昔の幻影として、
現代の日本では失われたか?


じつは現代でも訪日外国人が、
幕末・明治と同様の体験を
語っていた。


日本滞在20年、帰化して
大学で中国語をおしえる
姚南(ようなん)さんが言う。

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これは民族性の違いだと思います。
日本では一歩譲ることによって
様々な衝突を避けることが
できます。


例えば自転車同士が
ぶつかったときなど、
中国ならすぐ相手の
責任を求めます。

でも、日本では、まず、
お互いに「すみません」と謝ります。
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 こうした日本人の特性を
姚南さんは「民族性」と呼んだ。


「民族性」は、薄れつつも、
いまだ現代の日本に
根強く残っている。


しかし、こうした社会の徳性は、
自然に生じたり、
勝手に続くものではない。


家庭の中で親が子をしつけ、
共同体の中での大人の
振る舞いが青少年を
無言のうちに教え諭す。


先人が築き上げた幸福な
共同体のありようを、

しっかり継承し、
現代にマッチした形で
「大いなる和の国」を
再生するのは、
現代の日本国民の
課題かもしれない。



以上です。



欧米社会での貧民の境遇は、孤独で絶望的なものだったのですね。日本だって、貧しい人々はたくさんいたはずですが、先人たちは、さりげなくも助け合う仕組み、共同体を築き上げていたということなんですね。思いやりがあり助け合う、平等な一員として生きていける社会、連綿と親から子へ伝え、大人が自身の振る舞いをもって教え諭し続いてきた徳性ある社会だった。貧しくても孤独で絶望的ではなく、質素ながら正直に人を信頼して生きていけた。エピソードからも、律儀で正直な先人たちの姿に、愛おしい気持ちが溢れました。
戦後、日本の中の様々な人々のつながりが、断ち切られていったと思います。核となる『家族』を壊そうとする力は、未だに働いているように思います。やたらと個人ということに焦点が当てられ重んじられますが、それは結局は個人の孤独へとつながり、社会の徳性が失われていくことになるのでしょう。古くから日本はこの様々な共同体での人々のつながりが、国をしっかり守ってきたのだと思います。失われたとはいえ、まだまだ日本人は、各家庭で当たり前のように家族が大切なことを継承し続けていると思っています。思いやりのある共同体、そんな日本を取り戻したいと思いました。