「......雅紀!」
ぽっと現れたというか、降って湧いたように忽然と姿を現した彼に、烈しい興奮が心臓を凝結させるが、ようやく見つけた、と膝からへたり込みそうになる、安堵した気持ちの方が大きく勝った。
「ああぁぁぁぁ.....よかったぁぁ、ここにいたんだ、雅紀。なんか、スゲ〜安心した」
なだらかな曲線を描く肩が、さらに撫でたような丸みをおびる。心底ほっとした様子で、翔は眉をハの字にして胸を撫で下ろすと、ヘナヘナした笑いが思わず出てしまった。
「 ?」
雅紀と呼ばれた方は、息を凝らすようにじっと見る。
(..........だ、れ、....?)
ぼくが瞬きするくらいの、ほんの少しの間に、目の前にいた。
そこには、それまで人の気配も姿も、全く感じることがなかったというのに、ぽっと、降って湧いたように姿を現したのだった。びっくりしない方がおかしい。
咄嗟にぎゅっと手のひらを握ることで、内心の驚きを隠した自分を褒めてやりたい、と思った。
顔も、声も、目の前の人の容姿に一切憶えがないのに、ぼくの意思とは無関係に、目はその人に釘つけにされたように、瞬きすることも忘れていた。
そして懐かしさと、うしろめたいほどの安堵と幸福を覚えた。
それは取りも直さず、警戒するということを、全く考えてない自分があることに、この時は気づいていなかった。
雅紀? とその人は、キョトンとした表情でぼくを見る。寸前のハの字眉は、元の位置に戻っていた。
そしてその人は、面白いほど表情がよく変わる。いまぼくは、どんな顔をして目の前の人を見ているんだろうか?
「雅紀、どうかした?」
とても親しげに、優しい声と、ふわりと笑う口許に視線が吸い寄せられる。
形よく美しく並んだ白い前歯が、肉厚の唇の間から覗き見えると、ドクン、と鼓動が高鳴った。幽かに禁断の匂いのするざわめきが、彼の胸の内を走り抜けた。
翔は無心に、ただただまっすぐ見つめてくる、雅紀の目に合わせるも。
この目の色は....どういうことなんだ? と、思わざるを得ない。
それはただ鏡を見るように、雅紀の双眸に自分が映る、それだけでしかない。
自惚れかもしれないが、いつもの雅紀だったら自分を見て、色づく目をする。それは歓喜の色だったり、甘えだったり、不貞腐れたり、怒った色だったたり。表情や言葉以上に雄弁に、その黒目がちの目が物語るはずなのに。
ーーー いまの状態は、ニュートラル、というか。
それは手の中にあるのに、なにもないような山の中で、両手で水をすくって飲んでいるような、あってないようなもの、に見てとれた。
煙が拡がるように、どこか釈然としない憂虞に、心を絡めとられそうになる。
それぞれの胸臆に鎮めた思いを振り払うように、互いの視線が相手の姿を一巡させる。口を噤むかせ押し黙った間が続く中、先に破ったのは翔の方だった。
「.........雅紀。聞こえてる、俺の声?」
聞こえてる、はっきり聞こえてる。
(......だれ、マサキって。誰のことを、呼んでるんだろ。......そもそも、あなたは、誰?)
表には出せない、ため息が出る。
さっきよりも、低い声でボソボソっと話してるようだが、とても聞きとりやすい話し方をする。だが、それに反して表情は少しずつ、険しくなってるような気がした。
眉間に皺を軽く寄せて、両腕を組んだかと思うと、片方の手で自分の唇を引っ張るように触り始めた。
「なぁ、どうかした? なんか言ってくれよ、雅紀」
首を傾げて、ぼくの顔をのぞき込むようにして見てくる。優しい声遣いは変わりないのに、それと解らないくらい幽かに、苛立ちの棘が突き刺すような語調を感じた。
「 」
(ああ......マズい、ヤバい。......困ってる、...っていうか、怒らせてる。ぼくが....、なにも応えないから....
でも......なんて応えていいのか、.....わからない...)
物事の先を見据え、おくびにも出さない明確な意志を湛え、自分も他人をも導かせるような、力強い光を放つ視線がどこか恐くて、堪えられなくて。
目の前の人にだけは、なぜか知られて欲しくない。秘し隠したい動揺を気取られぬよう、そっと瞬きするように視線を逸らした。
そんなぼくに、いち早く気づいたその人は、一瞬傷ついたように、ガラス玉に亀裂が入ったような目をして、眉間に寄せられた皺を深くさせたことを、ぼくは知らなかった。
外された視線の矛先を、手繰り寄せたかったのか。ぼくの真意を汲み取ろうとしての、言葉なのか。
喉元の奥から、やっとの思いで絞り出すような、苦々しい吐息を洩らした。
「..................そんな、カオ、すんな.....
って言っても...、俺が、そう、させてるんだよな........ゴメン、な............
だけど、これだけは言わせてくれ....
お前に、そんなカオさせたくて、言ってんじゃないのは、......わかってほしいんだ」
いきなりそう言われ、虚を衝かれた。まったく予想もしていなかった言葉だった。
謗られるんでないかと思ってた。さっきから、なにひとつ答えようとしない自分に。
本当は答えられないだけなのだが、一言も発してないから誤解を受けることは、当然のはずだ。それなのに、目の前の人は、声を荒げることも、怒ることもせず、根気よく付き合ってくれていた。
だからその言葉は、体重の乗ったパンチのごとく、ずっしりと響いた。
一字一句が、胸の奥の、一番奥底の、やわらかいところを容赦なく衝く。ジクジク、ジクジク、膿んだように疼くこの痛みは、なんなのか。
優しすぎる、その人を前にして、あまりにも幼稚じみた自分が情けなかった。
どこまでもどこまでも、自分のことを気にかけてくれる。無償で差し伸べられる、その手を握っていいのか....。自分にその価値があるのか、見出せない。
目の前の人の強さから、逃げ出した。見透かされるのが、恐くて。
自分の形容しがたいそれは、すぐに底が露呈してしまうほどの浅はかさと、人としての薄っぺらい主体だった。
ーーー 気がつくと自然とぼくは、緩く頭を振っていた。
ちがう、ちがう。あなたが謝ることでない。
言葉はすぐそこまで、出かかっているのに口が開かない。
頭で思うことと行動が直結しないで、二方向に分かれてそれぞれ動こうとする自分が情けなくて、もっと激しくブンブン頭を振ってみせる。
なのに、それなのに。その人はぼくの両腕にそっと触れながら、ぼくの目を捕らえて見つめてくる。
いまにも泣きそうなほど眉をひそめ、ぎゅっと唇を噛むその表情は、なんとも言い表せないほど悲痛で、さまざまな感情を呑み込みながら、口角をわずかに上げてみせる。
花びらの中に包み込まれているような優しさを纏った雰囲気と、くっきり描く二重瞼に、凛とした大きな目は何でも見透かしそうで。
双眸に宿る光の強さを感じたのが、目の前の人の身体の内を、風が吹き抜けるように空虚さが通り、幽かな翳りがその目に降りるのが、垣間みえた。
(......あぁ..... ぼくが、目の前の人を...、こんな表情に、させてる のか......
それは、ぼくもおなじ...、顔をしてるから、だろうか......... )
さっきまでの胸の痛みには、理由がつけられなかったが、いまは、きり傷が風に触れるように、心が痛い。シクシク、痛い。
痛いのは、同じ。きっと、目の前の人も....
「.........あの........ぼくは... ぼくは...、
......まさき...、って言う、の...?」
「..................................ッ、」
目の前の人が、息を飲む音が聞こえた。身に纏っていたであろう雰囲気が一変した。
身体を突き通す刃のような、鋭く見つめてくるその目にぼくは気圧されて、息を吸い込む。
一瞬で、翔は顔が歪むのがわかった。心地いい言葉ではなかった。腐った果実に齧りついたような感触がする。
「ハァァッ?? なに言ってんだ、お前は雅紀だろ。相葉雅紀だろうが! なんだよ、他の誰だって言うんだ? 相葉雅紀はお前しか、いねぇーよ!!」
何度も何度も、ぼくを 「雅紀、雅紀」 と呼ぶ。
それまでの落ち着き払った姿はどこにもなく、冷静さに欠けた男の姿があった。
顔色を失い、血走った目が、ぼくを離さないと捕らえる。怖いくらい真剣な表情で。
余裕のない自身の脆さや、追い立てられる焦燥感、とらえどころのない恐怖に押し潰されまいと、必死に闘ってるようにも、なぜかみえて。怒涛のような悲泣の心が募る。
それは、両腕に爪が喰い込み、痛いくらい強く摑まれる力に表れていた。腕が痛いと声を上げることも、目を逸らすことも許されない気迫が、彼にはあった。
「なあ、雅紀。なんか俺のこと、ダマそうとしてる? そんなの、いまはナシだぜ。
雅紀、わかってる? 俺の言ってること。ぼくはダレ? アナタはダレ? って、ひとり遊びはこれで終わり、って言ってんの」
ぼくはその人の目を見るのが、やっぱり怖かった。巻き戻し、また同じように再生される、あの双眸を見たくなかった。それでも、ぼくは言うしかなかった。
ーーー ひとり遊びって、どう言うこと、ですか....?
「........................、
.....なぁ..、マジで言ってんの? 本気で、自分のことわかってない?
............俺の、ことも.....」
ーーー 光が....
その人の目には、なにが映っていたんだろ......
ぼくを見て、まさき、と呼ぶ、その人を、ぼくのなかに見てた
ーーー 急速に力を喪い、眩耀を喪い、燈火が消えるように、細く細く小さく小さくなって
消えた.........
(............ぼくは...、彼の、なんだろ...
ぼくのことを、まさき、って呼ぶ
その ...まさき、ってぼくは...、
彼にとって、どんな存在であるんだろ......?)
・・・ 二重瞼の奥の、どこまでも、どこもまでも深く、暗澹たる深海の
底辺を這うような、暗い目を見つめていると、ぼくの中に、ギシギシ軋むような
胸をえぐるような痛みが走る
それはそのまま、彼の無言の悲痛の叫び声にも、聴こえて・・・
ーーー 雅紀は目の前にいるのに、かみ合わない会話
触れれば体温を感じ、姿を眼にすれば、愛しさがこみ上げてきて、細くしなやかな身体を抱きしめたくなる ーーー
・・・ あまりにも、悲しそうな眼をするからだろうか。それは同情なのか
それとも哀れに思ってしまったからだろうか
あとになって、この時の感情を考えてみても、しっくり来る感じがなくて ・・・
ーーー 実像があるのに、摑みどころがない
ボタンのかけ間違いを、繰り返し続けているような焦燥感と
先の見えない未来を考えたときの、肌が粟立つような漠然とした不安 ーーー
・・・ 彼に、なにかしてあげられることが、あったとしたら
この時のぼくには、彼を抱きしめることしか、思いつかなかった ・・・
ーーー どこでもいい、なんでもいい、安心という足場に立ち続けていたい
止むことなく襲い掛かる、とどまっていたら飲み込まれてしまいそうな
心が折れていくような不安や、暗澹とした怯る気持ちがない交ぜになり
どこかオチに入る感情の居場所がないか、必死に闘ってた最中ーーー
雅紀の両腕がふわりと背中に回され、俺はそっと、やわらかく抱きとめられた
「..................雅、......紀...?」
消え入りそうな声とピクッと震える身体は、子どものようにとても小さく感じて、ぎゅっと強く抱きしめたら、脆く壊れてしまうようなあやうさと。
その人の全身から発せられる、上品で爽やかな大人の男性を感じさせる馥郁とした香りは、どこかアンバランスでありながらぼくの意識は、香りの方に気を取られていて。
「 ...、」
ぼくは、無意識のうちに、名前を呟いてた。
その人が身に纏う香りは、記憶の底の底から何かしら懐かしいような、遣る瀬ない夢のような......
正直言えば、吸い付きたいような思い出を、呼び起こすらしい気持ちのする匂いだった。