まぁ、次女を散歩に連れ出したりもしたいし、出掛けてはいたけれどね。我が子ながらさすがに少々うんざりもした。私も当時は気持ちにゆとりがなかったんだと思う。今もないけれど( ̄0 ̄;)
長女は、感受性がやけに強いので、ずっとあれこれ手のがかる子供だったな、と思っていた。
でも、それは長女自身もずっと思っていたようだった。不登校だった自分が、なぜみんなと違ってこうなんだろう、という思いがずっとあって、それが自信をなくして、自分は人とは違っている、とかなり大きくなるまで思っていた、と言っていた。だから、ずっと自分が嫌いだった、とも。いつも自信がなくて、不安に思っていたと、私も気付けずにいたのだ。
それでも長女も成長していくにつれ、世界が広がってきて、沢山の人と出会うことによって、自分だけが、それほど変なダメな人間なわけではない、と思えるようになったようだ。
以前は私もただ、不登校の長女を学校になんとか行かせることばかりしか頭になかったけれど、以前の生活と、180度変わった生活になったまだわずか8歳の子供が、不安定になるのは当たり前のことだと、今なら思うし、その時に、私に余裕があって、そのことをたった一言伝えてやっていたらもう少し楽な気持ちで長女も過ごせたのに、と悔やまれる(>_<)でもねぇ、私も当時はあれが精一杯だったんだよなぁ(>_<)
それでも、そんな不安で自信のなかった思いが今の長女を作り上げているかもしれない。いったい何が普通というのかわからないけれど、大多数の人と同じことを普通というのなら、全く普通と違う重い障害を持つやまとの母になり、またやまとに手をかける分、我慢することも多くなるうたの母にもなるために、そんな経験が必要だったのかもしれない。
今の長女は、ほんとに大変な毎日の中で、子供達の気持ちを一番に優先してがんばっている。うたにも、仕方ないところは多々あるけれど、寂しい思いを極力させないように、できる限りの努力をして遊んでやっているし、やまとにも、みんなと同じ体験をさせてやりたい一心で毎日小学校に付き添っている。
それは見ていてほんとに大変なことだけれど、長女自身の希望でもある。自分が感じた思いをさせたくない、という強い気持ちがあるからできるのだと思う。だから、私も協力を惜しまない。人生には無駄はないんだろうな、と思う。
長女は、毎日やまとと小学校で過ごすので、いろんな子供達を見ていて、最近は教室に入れない子供達もたくさんいて、保健室で過ごしていたり、昔と違って、いろいろな子供達を受け入れ、学校も対応が多様化してきている、と言っていた。いろんな子供がいるのだから当然といえば当然かもしれない。ようやく時代が追い付いてきたのかもしれないけれど。
それを見るにつけ、長女は、私も長いこと自分は変な子供だと思ってきたけど、全然普通だし、って最近よくそう思うよ、と言っている。それを聞くにつれ、申し訳なくて胸が痛む(>_<)
でも、あんたは今いいお母さんになってるよ、と私は心から思う。
今も不登校で苦しんでいる親子は多いかもしれないけれど、きっと先ではこの体験が必要だった、と思えるかもしれないし、人生はわからないものだ、と思う。私も今当時の後悔はあるけれど、やまとやうたには、おおらかに接することができていると思う。
やまとのことも、別に可愛そうな子供でもなんでもないし、障害があるただの普通の六年生の男の子だ、と思っている。今のやまとが私達の普通だと。そんな風に思えるのも、今までのすべての体験で培われてきたのだと思う。だから、あまりもう後悔ばかりもしないでおこうかと思う。
私が嵐のような日に、うたとドイツの森に行った翌日、また別のイベントがあるからと、こんどは長女とでかけたそうだ。この日はいい天気だったようだ(゜゜;)