孤独な音楽家の夢想
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「志木第九の会」第21回定期演奏会

■「志木第九の会」第21回定期演奏会

【日時】2024年9月1日(日)開演14:00

【会場】富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ メインホール

【入場料】2,000円(全席自由)

【問い合わせ】志木第九の会 090-4474-2901(大村)

 

【曲目】

佐藤眞:混声合唱のためのカンタータ《土の歌》

フォーレ:《レクイエム》

 

【出演】

指揮:三澤洋史

ソプラノ:藤崎美苗

バリトン:大森いちえい

ピアノ・オルガン:矢内直子

エレクトーン:長谷川幹人

合唱:志木第九の会

 

 

 大学生の頃からお世話になっている「志木第九の会」が、21回目の定期演奏会を迎える。これを、僕たちは、門出の演奏会と捉えてみてはどうだろうか・・・。

 

 前回の演奏会は2022年9月、節目となる第20回定期演奏会を「志木市民会館パルシティホール」で行った。ヘンデル《メサイア》全曲公演だった。これが、長年お世話になってきた「志木市民会館パルシティホール」での最後の定期演奏会となり、その後、市民会館は取り壊しとなった。ある意味、かつての「志木第九の会」は、これをもって完結したのかもしれない・・・。

 というのも、この演奏会は、2001年の第8回定期演奏会で、ヘンデル《メサイア》を抜粋で演奏したことと関わりがあった。つまり、「全曲」を「オーケストラ」で演奏したい・・・という団員の強い希望であった。大学4年生だった僕は2000年から指導陣のひとりに加えていただき、第8回定期演奏会では、ソリストも務めさせていただいた。それから団内クラブ「志木グリークラブ」の指揮・指導もさせていただいて、メンバーとは濃密に関わらせていただいた。

 しかし、残念ながら、コロナによって、団内で決定的な分裂が起きてしまった・・・。どうすることもできなかった・・・。僕の故郷のような温かな「志木第九の会」が、まさか、そのようになるとは思いも寄らないことだった。青天の霹靂とはこのことだった。コロナは、容易に、人と人とを分断させた。そこから逃れることができなかった。そして、この事件が、身体に影響したのかもしれない・・・。長年、強いリーダーシップで「志木第九の会」を牽引してきた事務局長の岡嶋登紀子さんが引退した。・・・それでも、「志木第九の会」は、20年越しの希望を形にすべく、2022年、第20回定期演奏会にて、ヘンデル《メサイア》全曲演奏会を行った。光栄にも、ソリストを務めさせていただいた。

 

 ・・・「志木第九の会」に関わらせていただいて24年。この月日は、僕の音楽人生そのものである。たくさんの人びとに出会い、お世話になり、そしてさまざまな形で別れた。それらひとつひとつが、僕の財産である。本当にありがたいことだった。何も分からない僕を、温かく迎えてくださり、諦めずに育ててくださったのだから・・・。

 今、合唱団をぐるりと見渡すと、24年前に歌っていたメンバーはほとんどいなくなってしまった。それでも、頼もしいメンバーがたくさん加わり、「志木第九の会」は継続されていく。事務局長の岡嶋さんのお弟子さんで、長年、「志木第九の会」でピアニストを務めている矢内直子さんの存在は大きい。岡嶋さんの精神が、矢内さんにしっかりと受け継がれている。

 僕たちは、志木市に新たな市民会館ができるその日まで、「志木第九の会」を盛り立てていかなければならない。「こけら落し」は、「志木第九の会」が《第九》を晴れやかに演奏すべきである。それには、いろいろな意味で、力をつけていかなければならない。・・・それが、これまでお世話になってきた方々の願いであろう。それがいつになるか分からない。だが、願い続けることが大切だ。歴史をつなぐ・・・これが残された者にとって、最も重要なことである。

 

 「志木第九の会」には、しっかりと根付いているのだ。「志木第九の会」の精神が・・・。矢内さんにも、僕にも、そして新たにバトンタッチされたメンバーにも・・・。・・・種子はすでに、大地に撒かれているのだ。たとえ、天変地異が起ころうとも、人と人とが不和になろうとも、戦争の災厄が起こっても、やがて、地上に芽を出し、花開く時が来るだろう・・・。

 このタイミングで、《レクイエム》を、そして《土の歌》を演奏する意味が、じわじわと僕の腹に落ちていくのを実感する・・・。

 

by.初谷敬史

47歳

 みなさん、たくさんのお祝いのメッセージをありがとうございました。

 健やかに47歳の誕生日を迎えられたことに、本当に感謝しています。僕を守り、導いてくださった神仏やご先祖さま。そして、僕を丈夫に産み、育ててくださった両親。また、僕を温かく支え、励ましてくださっているみなさん。すべての人に、恩返しをしていかなければなりません。少しずつ、少しずつ・・・。

 

 ところで、嬉しいことに、今、僕は、僕自身に更なる可能性を感じています。この歳になって、ようやく少しずつ、自分自身が分かってきたのかもしれません。そして、これまで培ってきたことが、実りつつあるのだと思います。本当にこれからの自分が楽しみでなりません。

 

 健康に気をつけて、更に精進して参りますので、これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

◆お盆に地元で開かれた中学のプチ同窓会。32年振りに会う中学の仲間たち。4組の副学級長だったしっかり者の伊万里ちゃんのお店で。すっかり忘れてしまったが、僕が学級長だったようだ。とても仲の良かったバスケマンの川田くんは、3年生の合唱コンクールで〈大地讃頌〉を僕が指揮をして、金賞を取ったことをよく覚えてくれていた。・・・いろいろなことを忘れてしまったが、あの頃を懸命に生きていた僕らがいたことを、改めて思った。(・・・僕がここに出席したのは、やはりコロナが吹き荒れたからである。)

 

◆車だったので一滴も酒を飲んでいません。笑

 

by.初谷敬史

八戸三社大祭・2

(承前)

 

 「八戸三社大祭」は、正真正銘、若者の祭りだった。・・・街がニコニコ笑っているようだった。活気があり、熱気があり、街の人みんなに豊かな情が通っているように思えた。どこからこんなに湧いてくるのか・・・と思うほど、街はたくさんの若者たちで溢れていた。青森県内2位の33万人を誇る都市ということ以上の何かを感じた。

 

 三社大祭とは、市内の「龗(おがみ)神社」、「長者山新羅(ちょうじゃさんしんら)神社」、そして「神明宮(しんめいぐう)」の三つの神社が合同で行う祭りである。その歴史は古く、江戸も享保6年(1721年)まで遡る。飢饉に苦しむ人びとが、「龗神社」に豊作を祈願した。すると、秋には豊作となった。人びとはその御礼として、武士や町人から寄進を募って神輿を建造した。そして、神輿行列を仕立てて、「長者山新羅神社」まで渡御(とぎょ)したことが祭りの起源とされている。明治になり、「龗神社」単独での祭りの開催が難しくなり、明治14年(1881年)に「長者山新羅神社」が参加、明治19年(1886年)に「神明宮」が参加し、「八戸三社大祭」が誕生したという。

 

 祭りのハイライトは、なんと言っても、八戸市街を練り歩く華やかな「山車」の競演であろう。三つの神社の古式ゆかしい神社行列(「神輿」、「法霊神楽」、「虎舞」、「大神楽」、「駒踊」など)に続いて、神話や昔話を題材として各山車組が制作した27台の豪華絢爛な山車が街を練り歩く。(同時期に開催される「青森ねぶた祭」とは成り立ちが異なるという。一番の違いは、「八戸三社大祭」は神社の祭りであるということ。)

 大祭の初日には、八戸市の中心街に27台の山車が一斉に並び、各山車組のお囃子が披露される「前夜祭」が行われる。祭りの本番は、二日目の「お通り」からである。中心街を、厳かな三神社の行列を先頭に、さまざまな郷土芸能の列が続き、更に27台の華やかな山車が延々と続いていく。三日目は「中日」と呼ばれ、夜間にライトアップされた山車が練り歩く最も華やかな行列となる。四日目は、「長者山新羅神社」まで渡御した行列が帰ってくるという意味の感動的な「お還り」の行列となる。五日目の「後夜祭」は、「前夜祭」と同じように中心街に27台の山車が一斉に並び、各山車組のお囃子が街に鳴り響き、祭りの終わりを告げる・・・。雄壮な行列の往き交う圧巻の五日間である。

 

 ・・・昨年、東京佃の「住吉神社例祭」(佃祭り)に来てくれた松井永太郎くんが、故郷の祭りを僕らに誇らしげに語り出した——「八戸にも、三社大祭って祭りがあって、山車をみんなで曳くんですよ!」・・・彼が語り出したのは、神輿を担いで興奮していた僕が「佃祭り」について、熱く語っていたからだろう・・・。松井くんは、そんな僕の姿を羨ましく思ったのかもしれないし、急に故郷を思い出して胸が高鳴ったのかもしれない・・・。彼の説明は、はじめて聞く単語ばかりで、何を言っているのかほとんど分からなかったが、いろいろなことを一生懸命に話してくれた。まるで、子どもに戻ったかのように目を輝かせていた・・・。それもそのはずである。子どもの頃、彼は毎年、この祭りに参加し、町内の山車を曳いていたのだ。そして、町内のお囃子を、今でもよく覚えているそうだ。その記憶や感動を思い出し、祭りで熱くなっている僕に、素直に伝えたかったのであろう。そして、彼は言った——「八戸の祭りに来てほしい! 一緒に山車を曳いてほしい!」、と。

 「八戸」という街、そして「八戸三社大祭」は、きっと、松井くんのアイデンティティそのものなのだ。彼を知るには、彼のすべてを知るには、八戸に行って、そして祭りに参加することであろう。東京にいては分からない彼自身を、八戸に行けば知ることができる。故郷を知って、はじめて友を知ることができるのだ・・・。

 僕らは、もちろん行くことにし、計画を立てた。

 

 八戸に実際に着いてみると、土地について、いろいろなことが分かった。

 八戸は、土偶などが出土しているように、縄文から続く古い土地である。それから、蝦夷の文化が、奥州藤原氏による支配まで、長らく続く。その後、甲斐の南部氏が、源頼朝からこの地を賜って移ってきたとされている。その時の「根城(ねじょう)」が、現在、市街の西部に残っている。江戸時代になり、幕府は盛岡藩10万石を、盛岡藩8万石と、八戸藩2万石とに分けた。それが八戸南部氏となり、「八戸城」が築かれた。その城跡が現在も残っており、市街地の中心「三八城(みやぎ)公園」となっている。「八戸市公会堂」や「市庁舎」も、かつての城内ではないかと思われる。

 市街地は、太平洋戦争での被害がほとんどなかったようだ。そのお陰もあって、おそらく町割りや道路が、江戸時代とほとんど変わっていないと思われる。町名にその名残りがある。例えば、「八戸城」の近くには、「内丸」、「番町」、「馬場町」など、いかにも城下町らしい町名が並んでいる。また、城の南側には、町人の街が広がっているのが分かる。東西に伸びる街道沿いは、西から東へ「二十三日町」、「十三日町」、「三日町」と並んでおり、これを「上町」と言う。この街道は、中心となる交差点を挟んで、そのまま西から東へ「八日町」、「十八日町」、「二十八日町」と続き、これを「下町」と言う。「上町」には「根城」から移ってきた町人が、「下町」へは八戸の東側の「新井田(にいだ)」の町人が移ってきたそうだ。これらの町名の数字は、「市」の立つ日である。

 この主要街道の南側に、もう一筋、東西に伸びる街道が並行して走っている。やはり西から、「二十六日町」(七つ家)、「十六日町」(馬喰町)、「六日町」(魚町)、そして中心となる交差点を挟んで、そのまま西から「朔日(ついたち)町」、「十一日町」、「下大工町」と続く。そのほかにも、「寺横町」や「大工町」、「鍛治町」、「売市」など、想像をかきたてる町名が多く存在する。

 実際に街を歩いてみると、当時の町割りがよく分かる。通りに面した商店は、大抵、間口が狭いが、奥行きがかなりあり、そんな古い建物を見ていると、南部商人の生活の風情が今でも伝わってくるようだ。

 

 さて、僕らが祭りに参加させてもらったのは、「六日町」の「六日町附祭若者連(むいかまちつけまつりわかしゃれん)」である。六日町は、松井家の商業ビルの立つ、市街の最も賑わっているところである。僕らは、揃いの浴衣を借りることができた。ここは「魚町」とも呼ばれ、かつて魚を商売にする店が多かったという。揃いの法被やTシャツは、白地に紺の波模様、そして、「魚」の文字が目印である。

 六日町の山車は、他と比べて派手さがなく、勇壮な雰囲気である。鬼の四天王と言われる「酒呑童子(しゅてんどうじ)」がテーマとなっている。近畿地方の大江山に住む鬼の頭領「酒呑童子」は、手下の鬼たちと一緒に、街に下りては金銀や若い娘をさらっていく悪事をはたらいていたという。デザインはその一場面。中納言の姫君の一行を襲って、連れ去ろうとするところだそうだ。この山車は、台座の岩が特徴だと、製作者の息子から聞いたので、すぐに調べてみると、伝統的な「岩山車」と呼ばれる類型に属するものだと分かった。きっと、このことが審査員に評価されたのだろう。見事「伝統山車賞」を受賞した。近年は、派手さに重きがおかれ、伝統的な型が軽視されつつあるという。そのように説明され、改めて六日町の山車を見てみると、他にはない趣があるように感じられた。

 

 この山車を、長い縄で曳く「引き子」が、僕たちの役目である。光栄にも、旗手の方から先頭を任されることになった。それもその筈である。後に続くのは、幼稚園か小学校低学年くらいのかわいい子どもたちであった。彼らが、長い、長い、縄の先頭を曳いていくわけにはいかない。・・・渡御の行程は、思った以上に長かった。多少ながら道に起伏もあった。気楽な気持ちで参加したが、実際はとても大変だった。強い日差しや暑さも身体に堪えた。・・・その僕たち「引き子」を勇気づけてくれたのが、子どもたちの元気な「お囃子」だった。

 各山車組には、伝統の「通り拍子」があるという。山車に乗せられた大太鼓と小太鼓。そして歩きながら吹かれる篠竹の笛が使用される。(昔は、笛も山車の上で吹いたそうだ。)その拍子に合わせて、子どもたちが元気よく掛け声を掛けるのが何ともいい。「よーい よーい よーいさー よーいさー よーいさーのせー あ やーれ やーれ やーれ やーれ」、「よーえっさ よーえさー あ やーれ やーれ やーれ やーれ 」など、いろいろなパターンが聴こえてくる。このお囃子と共に、山車は元気よく進んでいく。もし、お囃子がなければ、こんなにも快調に進むことはできないだろう。お囃子には、楽譜がない。だから、子どもたちは、先輩たちのお囃子を真似て、身体で覚えていくのだ。

 ・・・これこそ、生きた伝統である。子どもたちの身体を経由して、お囃子は、次の世代へと受け継がれていく。何と素晴らしいことだろう・・・。きっと、このお囃子が、この祭りの神髄なのだ。子どもたちの身体に入ったお囃子は、彼らの中から一生涯、抜けることはないだろう。ひとりの人の奥深くに鳴り響き続けるお囃子・・・。・・・悲しい時、苦しい時、この元気なお囃子が、彼らの奥深くから、彼らに向けて鳴り響いてくるだろう。そうして、故郷を思い出し、父母を思い出し、友を思い出し、祭りを思い出し、それによって勇気づけられ、彼らは困難を乗り越えていくことができるのだ。・・・それが、この共同体の一員である証であり、共同体の力の源である。・・・僕の耳からも、一ヶ月が経っても、まだ消えることのない不思議な霊力。きっと、この祭りは、お囃子の霊力を、子どもたちに与えることだけで十分なのだ。このお囃子の中に、与えるべきもの、そして、伝えるべきことのすべてが含まれている。だから、ただ、このお囃子を学ばせることだけ、それがこの共同体の務めなのである。

 松井永太郎くんとは何か・・・。それは、このお囃子そのものなのだ。・・・そのことが、祭りに参加して、よく分かった。

 

 祭りのクライマックスは、四日目の「お還り」である。

 ・・・僕たちの山車が、六日町の商店街を通った時、それは起きた。・・・山車が六日町に入ると、街が俄かに高揚し、活気づくのが分かった。六日町の人びとがみんなで、僕たちの曳く山車を待ってくれていた。・・・瞬間、何かを合図に、一気に歓声が上がった。その時、沿道の人びとの手から、それらは放たれた。盛大なクラッカー、そして、色とりどりの紙テープや紙吹雪・・・。大きな山車は、一気にそれらで覆い尽くされた。まるで、大型船が出港する時のように・・・。六日町の人びとの温かな気持ち、熱気、歓迎、笑顔、連帯・・・、それらすべてが、紙テープで結ばれた気がした。生きている中で、こんなにも人びとに温かく歓迎されることがあるだろうか・・・。僕は、心の芯が急に熱くなり、目に涙がいっぱい溢れてきた。心の芯が震え、身体の芯が震えた・・・。この震えが、どういうことだか自分でも分からなかった。ただ、僕は嬉しかったのだ。これまで三日間、六日町の子どもたちと一緒に山車を曳いて、正直、とても大変だったけれど、このように最後に、六日町に還ってきて、こんなにも街の人に迎えてもらえるとは・・・。僕はそんな街を、山車を、そして、子どもたちを、心から誇らしく思えた。街の宝・・・。街の魂・・・。

 

 ・・・そんな感動的な祭りに参加して、僕は真剣に故郷のことを考えていた。何か僕にできることはないか・・・、と。「風が吹けば桶屋が儲かる」の続きがないだろうか・・・、と。

 

 

◆【再興】新八戸市民の歌「新しい風」

https://www.youtube.com/watch?v=YrtlTqLPbxw

 

 

■六日町の大松ビルにて

 

■「龗(おがみ)神社」にお参り

 

■六日町の山車「酒呑童子」

 

by.初谷敬史

八戸三社大祭・1

 「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺がある。これにしたがって考えてみれば、世の中にコロナが吹き荒れたので、巡りめぐって、僕は八戸で山車を曳いた、と言えるのではないだろうか・・・。

 ・・・僕が八戸で山車を曳く、ということは、コロナ以前の僕からは想像できないことだ。なぜそのようになったのか、阿弥陀クジを遡るようにして分岐点を探ってみると、そこに「コロナ」という文字が浮かびあがってくる。コロナが吹き荒れなければ、僕はひとりぼっちにならなかった。そして、ひとりぼっちにならなければ、「佃住吉講」のメンバーにならなかったはずだ。且つ、「佃住吉講」のメンバーにならなければ、ユーチューバーにもならなかっただろう。このような経過が、果たして、良かったのかどうかは分からない。これは、運命の悪戯としか思えない・・・。「新全日本都道府県歌再興委員会」のゲーム配信で『デトロイト』という作品をやったが、まさに、このゲームのように、人生におけるさまざまな分岐点において、自らの選択によって、その後の人生がまったく別の結末になる・・・ということだろう。けれど、このゲームとひとつ違うことは、それが自らの自由選択ではなく、現実の「コロナ」という、自分ではコントロールすることのできない事象によって、道を変えられてしまったということ・・・。

 

 その悲惨さは、これまでもブログに書いてきたので、改めて書く必要はないが、僕は本当に大切なものを失い、精神的にも経済的にもどん底になってしまったことを、今一度、僕自身のために強調しておかなければならない。大袈裟に言えば、それまで僕のやってきたことすべてが否定されてしまったかに思えた。つまり、僕が本当に大切なものを失ってしまったのは、それまでの自分の選択がすべて悪かったせいだ、と。

 ・・・僕はここに、ひとりぼっち。社会から完全に隔離され、まるで無人島に取り残されてしまったかのようだった。コロナの前に「isle」(島)と名の付くマンションに引っ越しすることになってしまったのは、宿命的であった・・・。

 ・・・無人島で僕を救ってくれたもの——小さなメダカ、そして、小さな植物たち。・・・そう、僕の存在は、まるで、小さなメダカと小さな植物たちと同じだった。悲しいかな、それ以上でも、それ以下でもなかった。僕は毎日、唯一の友だちである彼らとお話ししていた。そうする中で、彼らにとって、とても大切なものがあることに気付いたのだった。水、空気、そしてお日さまの光である。・・・生物にとってごく当たり前のことであるが、それまでの僕は、そんなこともさえも忘れてしまっていた。・・・僕は幼少期を思い出していた。誰もいない実家での昼下がり、窓辺で、お日さまの光をいっぱいに浴びながら、いろいろなことを想像していた小さな僕・・・。

 人生をやり直す。それまでの僕が選択してこなかった人生をやり直す。コロナによって、まるで強制的にゲームのリセットボタンが押されたのだ。・・・そうだ。僕はコロナ前、完全に行き詰まっていた。八方塞がりだった。リセットとは、何と爽快なのだろう・・・。経験も、プライドも、何も持たない子どものような状態だ。好奇心、好奇心、ワクワクする気持ちだけが、僕を前へと動かしていく。今度こそ、地面にしっかりと足を着き、自分の足で歩いていこう。そして、自分の声を聞こう。そう、心の声を、心の耳でしっかり聞くのだ。それが正真正銘、自分の声なのだから・・・。

 

 このようにして、コロナでひとりぼっちになってしまった僕は、「佃住吉講」のメンバーになり、ユーチューバーとなった。

 そして、巡りめぐって、「八戸三社大祭」で山車を曳いたわけである。

 

 ・・・僕は山車を曳きながら思い出していたのだ。小さい頃の神社のお祭りを・・・。

 「ここは鑁阿寺の土地なんだよ」——小さい頃から親から言われ続けてきたこの言葉は、事実だったようである。八戸から帰り、「星宮(ほしのみや)神社」の縁起を『栃木県神社誌』(栃木県神社庁)で調べてみた。・・・「星宮神社」の創建は、何と室町時代の初頭まで遡る。足利尊氏の四男、足利基氏(初代鎌倉公方)が、橋本郷を山川郷より分村し、「鑁阿寺(ばんなじ)」(十二院)に寄進した・・・とある。つまり、足利基氏によって、橋本郷は、足利氏の氏寺「鑁阿寺」の寺領とされたわけだ。(鎌倉時代から南北朝時代にかけて、「鑁阿寺」には12の別坊があった。「普賢」「千手」「東光」「六字」「不動」「延命」「龍福」「三島」「安養」「宝珠」「威徳」「浄土」の十二院である。橋本郷の人びとは、これら十二院に、均等に年貢を納入していたという。)そして、その際に、「鑁阿寺」の東方の守護として、橋本郷に虚空蔵菩薩を祀ったのが「星宮神社」のはじまりであるという。虚空蔵菩薩・・・小さい頃、近所のおじさんが「こくぞうさま」と神社を呼んでいたのは、古い、古い、記憶によるものであった。この土地の人びとが、この古い、古い、記憶を、どのように伝承させてきたのかは分からない。しかし、近年まで、現にそのように伝わってきた事実がある。それはほとんど奇跡に近い。なぜなら、江戸も天保年間(1831-1845年)に、祭神を虚空蔵菩薩から瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に変え、その時に「星宮神社」と改称したからである。200年も前の話である。それからずっと「星宮神社」を「こくぞうさま」と愛着を持って呼び続け、それを子孫に代々伝えてきた人びとがいた。それは誰でもない、橋本郷の名家、初谷家や小林家の人びとだった。それはきっと、古くから足利氏、そして「鑁阿寺」と深い繋がりを持ってきた人びとだったのだろう。天正13年(1585年)の文書と推定される『鑁阿寺文書』No.153及び188によると、橋本郷の人びとが、小田原の北条氏との合戦のために田畑が荒れ果ててしまったので減免してほしいと、足利城主、長尾顕長(織田信長の家臣団)に申状を提出したという。そこに何と、初加谷(はつがい)の名が記されている。(・・・彼が間違いなく僕の祖先だ。初谷(はつがい)の「が」とは、もともと「加」だったのだ。)こうした祖先の自覚と責任が、神社を守り、祭りを守り、橋本郷を守り、家と血筋を守ってきたのである。現在も「橋本郷」の名は、「橋本通」の通称名として残されている。

 ・・・アルバムを見ると、祖母や両親に抱かれて「星宮神社」にお宮参りをしている赤ちゃんの僕がいる。祖父の仕立てた背広を着た七五三とてそうだ。「星宮神社」は、僕の産土神である。橋本という先祖伝来の土地で健やかに育ってきた僕は、毎年、「星宮神社」のお祭りに参加していた。氏子として「子ども神輿」(八坂神社)を担いで町内を練り歩き、お盆には櫓前で「八木節」を踊り、正月はみんなで餅をついて食べた。神社横の「橋本自治会館」に「書初め」を並べ、夏の肝試しは、きまって藪と化した古墳や、古い、古い墓地に行った。それらは、けっして怖い場所ではない。なぜなら、僕自身と何らかの関係がある場所なのだから・・・。僕ら橋本の子どもたちは、神社が集合場所だったし、境内が遊び場だった。夏休みのラジオ体操にはじまって、缶蹴りやドロジン、高鬼に野球・・・。自治会館の壁の傷は、僕がつけてしまったものだ。・・・ずっと、ずっと、僕らは神社に守られて育ってきた。そうだ、あの頃、橋本の中心は、間違いなく神社だった。

 ・・・それがどうしたことだろう。神社が泣いている・・・。あんなに温かかった境内が静まりかえっている・・・。一体、子どもたちは、どこへ行ってしまったのか・・・。

 

 ・・・僕は山車を曳きながら思い出していたのだ。小さい頃の「ヤングヤング大行進」を・・・。

 かつて足利は、ベビーブームなどが追い風となり、人口が県内2位を誇る17万都市に成長した。1970年に「市制50周年記念式典」を行い、「市民憲章」を制定した。そして、「若者の町宣言」をし、同年5月3日、市内の企業やさまざまな団体の若者が仮装をし、トラックを改造し、街の中心を走る旧50号線を、マーチングバンドを先頭に練り歩いた。これが、ナイスなネーミングの「ヤングヤング大行進」である。この日ばかりは、普段、交通量の多い幹線道路が完全に封鎖された。そして、街の中心の通2丁目交差点(当時スクランブル交差点)では、パフォーマンス・コンテストが行われた。・・・小さい頃の僕は、毎年、このウキウキする祭りを楽しみにしていた。たくさんの人が街に出ていたので、迷子にならないように、父や母の手をしっかりと握って、沿道から見物した。・・・ひと際、立派な行列は、足利銀行だった。その列に混じって親戚のおじさんが行進してくるのを見ると、一生懸命に手を振って応援した。僕はとても誇らしかった・・・。

 そんな僕も、小学校の高学年になって、行進に参加したことがある。「足利文化財パトロール隊」という市内の小学生で構成された隊に所属していたのだ。大通りを行進する僕は、気恥ずかしい気持ちと、誇らしい気持ちとが混在していた。僕は少し大人になったような気がしたし、賑わう足利のど真ん中を闊歩するのは、とても気分のいいものだった。もちろん、父や母は、それを沿道で応援してくれていた。こちらに一生懸命に手を振り、写真をたくさん撮ってくれた。僕は胸を張って歩いた・・・。

 ・・・不景気の煽りを受けて、この祭りは1994年で終了した。僕は、ずっと、ずっと、続くものだと思っていたのに・・・。

 ・・・どうしたことだろう。街が泣いている・・・。あんなに賑やかだった通りが静まりかえっている・・・。一体、若者たちは、どこへ行ってしまったのか・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史

湯浅譲二 95歳の肖像~合唱作品による個展

■湯浅譲二 95歳の肖像~合唱作品による個展

【日時】2024年8月12日(月・祝)開演18:00

【会場】豊洲シビックセンターホール

【チケット】前売一般4000円、前売学生2500円、当日4500円

◆カンフェティ販売サイト http://confetti-web.com/@/JojiYuasa95_0812

◆カンフェティ電話受付 0120-240-540(平日10:00−18:00)

 

【出演】

指揮:西川竜太

合唱:ヴォクスマーナ、混声合唱団 空(くう)

   女声合唱団 暁、男声合唱団クール・ゼフィール

 

【曲目】

湯浅譲二(b.1929)

・問い(1971) 言葉:谷川俊太郎

・芭蕉の俳句によるプロジェクション(1974)

   ヴィブラフォン:悪原至

・声のための「音楽(おとがく)」(1991)

・プロジェクション ― 人間の声のための(2009)

・混声合唱曲「歌 A Song」(2009) 詩:谷川俊太郎

・混声合唱曲「雲」(2012) 詩:谷川俊太郎

・混声合唱曲「海」(2015) 詩:谷川俊太郎

 

 

by.初谷敬史

宇多田ヒカル

 宇多田ヒカルのライブ「SCIENCE FICTION TOUR 2024」に友だちと行ってきた。友だちがチケットを取ってくれたのだ。・・・と僕が書くと、驚く人がおられると思うが、僕自身も正直、驚いている。まさか、この僕が・・・。

 ・・・というのも、僕は基本的に歌謡曲を聴かないし、カラオケにも行かない。だから当然、このようなライブに行ったことがない。そもそも、そのような音楽に興味がないし、今となっては聴いても分からない。つまり、心から楽しむことができない。なぜなら、僕はそういう世界とは違うところで生きているのだから・・・。

 ・・・と、ここまで勢いで書いてみると、猛烈に違和感を覚える僕が、いま、ここに、いる。・・・はて、いつから僕はそんなふうなってしまったのだろう、と。

 

 僕は、ある時期から、いろいろな扉を自ら閉めてきてしまった。きっと小学校から中学校にかけての多感な時期であった。心と身体が成長していく過程で、僕は僕自身を、自らの方法で守らなければならなかった。僕は僕自身の存在に誇りを持ちながらも、反面、自信が持てなかったし、強くもなかった。常に強烈な違和感と、もどかしさを感じていた。それは、自分自身の存在について。そして、他者との関係において・・・。僕は自分を自分でこれ以上、傷つけることを望まなかった。だから、自分で心のいろいろな扉をひとつひとつ閉めていかなければならなかったのである。その結果、秘密めいた存在となってしまった。けれど、これは、自分を守るために、仕方のないことだった。

 つまり、鎖国である。僕はみんなにとって、表面上、明るく、社交的で、ユーモアがあり、リーダーシップの取れる頼もしい存在であったろうが、内面を決して悟られることのないように、出入り口のすべてを封鎖していた。精神的鎖国。これを、仮面をつけたピエロと呼んでもいい。もちろん、苦しい。けれども、それは、僕にとって悪いことだけではなかった。そのお陰で、自らの内面を深め、独自に発達させることができたのだから・・・。それが、今の人格や芸術性に繋がっているのだ。しかし当時、それを僕自身が望んでいたのか、というと、決してそうではない。僕は、そんなことを望んではいなかった。もっと普通でいたかったし、もっとみんなと同じでいたかった。普通・・・。同じ・・・。これほど僕を傷つけるものはない。・・・残念ながら、僕の望むようには上手くいかなかった。僕が自分で扉を閉めなければ、きっと僕は、自分自身に耐えきれず、自ら命を絶ってしまっていたかもしれない。それほど、当時の僕にとっては、とても重要なことだった。誰も気づかなかっただろうけれど・・・。

 

 僕が心の扉を閉めてしまったもののひとつが、歌謡曲である。僕はもともと、歌謡曲が好きだった。テレビで好きなアーティストが出演する番組があれば、それを逃さなかったし、その演奏を自分でカセットに録音して繰り返し聴いては、よく歌っていた。・・・だから、その扉を閉めなくてもよかったのであるが、なぜか閉めてしまった。歌謡曲は、それきり聴かなくなった。

 

 ・・・長い、長い、鎖国時代。(これは、僕にとって、僕自身の神話時代とも言える。)

 僕の精神的鎖国を終わらせたものは何か・・・。それは、コロナである。コロナは、良くも悪くも、僕の何もかもを変えてしまった。コロナ渦における決定的な心のダメージによって、あの頃に閉じた心のいろいろな扉が、ほとんど開いてしまった。・・・しかし、これは自ら望んで開いたわけではなかった。自分自身を守るために、仕方なく開いたのである。もし開かなければ、きっと僕は精神的におかしくなってしまっただろう・・・。

 鎖国を解いた僕は、自分の存在位置を慎重に確かめながら、僕自身の道を新たに歩み出した。意外にも不安や恐れはなかった。僕は僕自身であることが楽だった。僕は僕自身であることを素直に肯定することができた。僕は僕自身である以外に方法はないのだから、僕は僕自身で感じること、そして出来ることをやればいいわけである。嬉しいことに、僕は僕自身にとても可能性を感じるのだ。・・・そうだ、いま僕は、心の扉を閉めてしまった小学生や中学生からやり直しているのかもしれない・・・。

 

 ・・・こんな僕に、宇多田ヒカルはやさしかった。

 埼玉スーパーアリーナという特殊な場所に足を踏み入れた僕は、まるで月面に降り立った宇宙飛行士であった。そこで遭遇した未知の生命体。・・・小学生か中学生の頃の僕と、宇多田ヒカルは、正面で対峙し、瞳の奥と奥とを見つめあった。いま、ここで、出会うべくして出会ったふたり。僕たちは出会わなければならなかったのかもしれない・・・。僕と宇多田ヒカルを結びつけたもの・・・それは、まさに、心の扉である。僕と宇多田ヒカルは、心の扉の内の、その暗い、暗い、無限の空間の中で、お互いに叫び合っていたのかもしれない。そのどうしようもない孤独と、存在のもどかしさを・・・。だから、宇多田ヒカルのうたは、まっすぐに、僕の心に向かってきた。僕はそれを、存分に楽しんだ。

 ・・・きっと、宇多田ヒカルは、僕と同じように、ライブは不向きなのだ。そういう音楽ではないし、そういう歌ではない。けれど、頑張ってライブをしてくれた。そうしたことすべてを、僕は受け取ったつもりだ。

 宇多田ヒカルは愛の化身である。とてもかよわい存在で、すぐに壊れてしまうだろう。宇多田ヒカルを保ち、勇気付けるもの・・・それが、うたである。そのうたの振動は、世界に満ち満ちる。それがとても大切なことだ。それは、やさしさという愛の振動である。それを、家族やバンド、音響チームや照明チーム、舞台スタッフ、会場スタッフたちが、全力でサポートしてくれていた。とてもありがたい・・・と思った。宇多田ヒカルを、人類は世界の片隅に放置していてはならない。開かれた存在として、宇多田ヒカルをこの世界に開示しなければならない。そうでなければ、世界は荒廃してしまうだろう。・・・僕のような暗い、暗い、無限の空間を内に抱えた人間に、まっすぐに、まっすぐに、語りかけなければならないのだ。宇多田ヒカルにはそうした使命があるだろう。

 

 僕を宇多田ヒカルに会わせてくれた友だちに、最高の感謝を送りたい。友だちも、かつて、月面にて未知の生命体に遭遇したひとりなのかもしれない。

 

by.初谷敬史

ヴォクスマーナ第52回定期演奏会

■ヴォクスマーナ第52回定期演奏会

【日時】2024年 7月16日(火)開演

【会場】豊洲シビックセンターホール

【料金】全席自由3000円(当日3500円)、大学生1500円、高校生以下1000円

□ホームページ http://vox-humana.wix.com/vox-humana

□Facebookページ https://www.facebook.com/voxhumana1996

 

【曲目】

湯浅譲二(b.1929)/ プロジェクション ― 人間の声のための(2009委嘱作品・再演)

渡辺俊哉(b.1974)/「半夜」 for 8 voices(委嘱新作・初演)詩:萩野なつみ

近江典彦(b.1984)/「Dom-ino khon Oblique」for vocal ensemble(委嘱新作・初演)

湯浅譲二(b.1929)/ 声のための「音楽 (おとがく)」(1991)

伊左治直(b.1968)/ 彩色宇宙(2019 アンコールピース18・再演)詩:新美桂子

​             世界への睦言 —湯浅譲二に(2022アンコールピース24・再演)詩​:谷川俊太郎

 

【出演】

Sop:稲村麻衣子、神谷美貴子、醍醐佑海

Alt:井上瑞紀、入澤希誉、佐藤百香

Ten:金沢青児、清見卓、初谷敬史

Bas:小野慶介、長部達樹、松井永太郎

指揮:西川竜太

 

 

◆ヴォクスマーナ定期賛助会員・新作委嘱活動支持会員募集のご案内

 ヴォクスマーナは、今年度の定期賛助会員と第52回定期演奏会の新作委嘱活動支持会員を募集しています。私たちの活動をご理解いただき、ご支援くださいますよう、よろしくお願いいたします。

 ★定期賛助会員(年間)一口 15,000円

 ★新作委嘱活動支持会員(第52回)一口 10,000円

□会員申込フォーム https://forms.gle/AiF9kkyki628sHAd6

 

【問い合わせ・チケット取り扱い】

ヴォクスマーナ事務局 080-6610-2118 

           e-mail:voxhumana_info@hotmail.com

□チケット予約フォーム https://forms.gle/ajPZbnrdP8KKSPnv6

 

by.初谷敬史

第3回 美しき日本のうた

「第3回 美しき日本のうた」湯川れい子・三枝成彰プロデュース

【日時】2024年7月10日(水)開演 18:00

【会場】サントリーホール 大ホール

 

【出演】 

歌手:稲垣潤一、神野美伽、小林沙羅、村松稔之、ジョン・健・ヌッツォ、樋口達哉、桜井万祐子、河野浩亮、松井永太郎(順不同)

合唱:六本木男声合唱ZIG-ZAG 

ピアノ:紅林弥生、岩井美貴

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

指揮:初谷敬史

 

解説:三枝 成彰

司会:松本志のぶ

 

【曲目】三枝成彰の新アレンジ、黒田賢一の新アレンジ

早春賦、からたちの花、初恋、おぼろ月夜、ひょっこりひょうたん島、蘇州夜曲、花、荒城の月、村祭り、ゴンドラの唄、宵待草、叱られて、赤い靴、証城寺の狸囃子、月の沙漠、カチューシャの唄、リンゴの唄、東京ブギウギ、銀座カンカン娘、里の秋、青い山脈、雪の降る街を、リンゴ追分、上を向いて歩こう、シクラメンのかほり、さくらさくら、炭坑節、ふるさと

 

◆チケット

S席 6,000円、A席 4,000円、B席 3,000円、C席 2,000円、D席 1,000円

※未就学児のご入場はご遠慮願います。

 

◆チケット取り扱い

○チケットぴあ http://pia.jp/t/ 

○サントリーホールチケットセンター   0570-55-0017(10:00-18:00 休館日を除く)

                    http://suntory.jp/HALL/ 

 

◆問い合わせ

株式会社メイ・コーポレーション 03-3584-1951(平日10:00-18:00)

 

 

 今回で3回目となる「美しき日本のうた」。ありがたいことに、今回も指揮をさせていただきます。なかなかプロのオーケストラを振らせていただけるチャンスはないので、一回一回がとても勉強になっています。三枝先生に本当に感謝です。

 先生は以前からおっしゃってくれていました——君に、オーケストラを振らせたい・・・、と。合唱指揮ばかりではいけない、というのです。そう、先生は僕を、指揮者として育ててくださっているのです。

 ・・・実は、ちょうど20年前、三枝先生の事務所を訪れて、先生の面接を受けました。三澤洋史先生の紹介で、六本木男声合唱団の指導スッタフに加えていただくためでした。若干27歳の僕は、本当に驚きました。モダンで奇抜な事務所では、多くのスタッフがいそいそと仕事をこなし、電話や指示が無尽に行き交っていました。同時に幾つもの巨大プロジェクトを手がけていたのだと思います。ミーティングルームに現れた三枝先生は、パリッとした白シャツに、真っ赤なベルトに真っ赤な時計をしていました。・・・ああ、これが本当の業界人だ、と思いました。面接中も、いくつもの事案を先生に確認するために、スタッフが幾人も来ました。途中、何度も電話で中断しました。そんな中、先生は次のように僕に尋ねたのです——君は、何になりたいのか?・・・僕は答えました——指揮者になりたいです、と。

 ・・・これを先生は、ずっと覚えてくださっているのです。それ以降、六本木男声合唱団の指導スッタフに加えていただき、さまざまな経験を積ませていただいきました。そして、その都度、先生は僕にいろいろなことを教えてくださいました。取り決めをしたわけではありませんが、先生は僕のことを弟子と思い、僕は先生のことを師匠だと思っています。本当にありがたいことです。しかし、僕は本当に出来の悪い弟子で、なかなか成長が伴いません。先生の期待に応えることのできないもどかしさ・・・。それでも、先生は僕を見捨てないのです。期待に応える・・・それは、とにもかくにも、いい音楽をする・・・それしかありません。けれど、いい音楽をする・・・これが、本当に難しいのです。大切なことは、僕の音楽を奏でること・・・。

 今回で3回目となる「美しき日本のうた」。いい音楽を奏でられるように、頑張りたいと思います。皆さま、是非、いらしてください。

 

by.初谷敬史

新町歌劇団 ミュージカル《ナディーヌ》公演

■ミュージカル《ナディーヌ》(原作・脚本・作曲:三澤洋史)

【日時】2024年6月22日(土)開演18:30

           6月23日(日)開演13:30

【会場】高崎市新町文化ホール

【チケット】全席自由 大人3,000円、小人(中学生まで)2,000円

【問い合わせ】新町歌劇団事務局:0274-42-8949 090-9954-1854

 

【出演】

ナディーヌ:込山由貴子

ピエール:山本萌

ドクタータンタン:初谷敬史

オリー:大森いちえい

ニングルマーチ:秋元健

合唱:新町歌劇団

グノーム:群馬県のこどもたち

 

指揮・演出:三澤洋史

ピアノ:小林直子

エレクトーン:長谷川幹人

 

 

 ***

 

 いよいよ今週末、新町歌劇団によるミュージカル《ナディーヌ》公演となる。満を持して・・・とは、このことだ。

 以前より、《ナディーヌ》を再演したい、という声が、歌劇団に上がっていたのを知っている。しかしそれは、なかなか現実のものとはならなかった。「再演」決定のきっかけは、2021年12月に、僕が副指揮者として、歌劇団の指導をさせていただくことになったことにあるように思う。・・・僕の「ドクタータンタン」を、もう一度見たい、という歌劇団の願いだ。

 新町での「初演」が、2004年8月21日・22日だったので、ちょうど20年が経過したことになる。・・・当時、僕は28歳の誕生日を迎える時だった。今、僕は47歳。あれから「ドクタータンタン」も、歌劇団のメンバーも、みんな等しく歳を重ねた・・・。

 「再演」公演を決定したものの、いろいろなことがあり、当初の計画から、幾度も日程が先延ばしされた。・・・しかしそれが、歌劇団にとって、いろいろな意味において、とても重要な準備期間となったことは間違いない。公演資金を集めるために、歌劇団で初めて「クラウドファンディング」を実施した。また、ミュージカル自体を、今回のために大分シェイプアップさせた。今の歌劇団で「実現できうる形」を模索した結果である。

 

 ・・・しかし、残念ながら、今回の公演を最後に、歌劇団は合唱団として継続していくものの、歌劇団によるミュージカル公演は、これで終了することとなる。・・・歌劇団の指導を任されている僕としては、とても残念だ。これまで、さまざまな舞台で演じたり、また自分でも舞台を作ったりと、いろいろな経験を積んで、ようやく歌劇団の指導をさせていただくようになったタイミングである。自分で言うのも何だが、ちょうど脂が乗ってきたところであり、これから歌劇団の役に立てる、と思っていた矢先のことだ。・・・けれども、そういうことも「時の流れ」であるのだから、あまり寂しがらないようにしようと思う。今の、そして、これからの僕にしかできないことを、その都度、歌劇団と共にやっていけばいいのだ。そこには、きっと新たな楽しい展開が待っていることだろう・・・。

 

 ところで今回、主役の「ナディーヌ役」と「ピエール役」に、若手が抜擢された。ソプラノの込山由貴子さんと、バリトンの山本萌くんだ。見るからにとても若く、一挙手一投足、すべてが爽やかである。稽古など見ていると、本当に微笑ましい・・・。まるで20年前の自分を見ているようである。笑 ・・・あの頃、たしかに僕は、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。それが、今では・・・。(今、あんなに飛び跳ねたら、骨折してしまうだろう。笑)・・・「時の流れ」とは、そういうものだ。しかし、それを僕は今、残酷なものとは感じていない。いや、むしろ・・・。

 不思議なことに、今年の僕は、20年前と同じところを歩んでいるように思われる・・・。先日の足利市民合唱団での《花に寄せて》、そして、今回の新町歌劇団での《ナディーヌ》。これは果たして偶然だろうか・・・。・・・まるで「永劫回帰」なのである。けれども、今、たとえあの頃と同じところを歩いているとしても、まったく景色が違って見えるのが驚きだ。それは、とても肯定的な意味においてである。まさに、「超人」にふさわしい気分なのである。

 ・・・僕は想像してみる——更に20年後、67歳になった僕が、もし足利市民合唱団で《花に寄せて》を、そして、新町歌劇団で《ナディーヌ》を経験するとしたら・・・。こんな楽しい夢は、他にないだろう・・・。そうしたら、僕自身、本当の意味で、IQ500の超マジウルトラ大天才の「ドクタータンタン」に、もっと、もっと、近いているかもしれないな・・・。笑

 

by.初谷敬史

たんぽぽの夢・7(第二部)

(承前)

 

●第二部

 舞台は、第一部のまま。舞台前方には、第一部でメンバーによって運ばれ、捧げられた「花鉢」が並んでいる。舞台後方には、「花畑」を象徴する飾りがある。

 合唱団入場。指揮者、ピアニスト入場。

 

◆ナレーション4

 指揮者はマイクで星野富弘さんの訃報を伝える

 ——皆さん、ご存知の方も多くおられると思いますが、星野富弘さんが、4月28日にご逝去されました。ここに謹んでご冥福を祈りたいと思います。私たちは、《花に寄せて》を演奏するために、昨年の10月に、みんなで「富弘美術館」へ、バス遠足に行ってきたばかりでした。それが、このような追悼演奏になるとは、考えもしませんでした。しかし、星野さんが、私たちに残してくださった多くの作品は、これからも、きっと私たちを励まし、勇気付けてくれることでしょう・・・。今日は、これらの作品を作った星野さんの「絶望」や「希望」に思いを馳せ、感謝を込めて、《花に寄せて》を演奏したいと思います。はじめに、星野さんの著書『愛、深き淵より』の中から、『マタイによる福音書』11章28節から30節の聖句、そして星野さんの言葉を、バッハのコラールに乗せて朗読し、それを、私たちの弔いの祈りとしたいと思います。

 

J.S.バッハ:教会カンタータ《深き淵の底より、われ汝に呼ばわる》BWV38より

♪第6曲〈コラール〉(日本語訳:初谷敬史)

 この〈コラール〉(賛美歌)は、カトリック教皇から破門され、ヴァルトブルク城にかくまわれた苦難の時期のマルチン・ルターが、『詩篇』の中から130番を選び、それを民衆のためにはじめてドイツ語に訳し、みんなで歌うことができるように短旋律をつけたものである。そのルターの旋律に、バッハが和声をつけたものがこれである。このバッハの〈コラール〉は、現在、日本のプロテスタント教会において、賛美歌258番〈貴きみかみよ〉として親しまれているが、日本語訳詞が、ルターの旋律のイメージから離れてしまっているように思えるので、僭越ながら、僕が改めて訳し直すことにした——「深い淵から主よ/あなたを呼びます/恵み深い耳を/傾けてください/罪深いわたしが/あなたのみ前で/耐えうるでしょうか」・・・この〈コラール〉で語られる『詩篇』130番こそ、身体の自由を失った星野さんの出発点である。

 この〈コラール〉を、合唱団が歌った後、ピアノでリピートする。

 

◆ナレーション5

 指揮者は、この〈コラール〉に乗せて『マタイによる福音書』11章28節から30節の聖句、そして、星野富弘さんの言葉を朗読する。・・・これが、星野さんが見出した唯一の希望となった。

 ——「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」・・・この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンといえる資格は何も持っていない私だけれど、「来い」というこの人の近くにいきたいと思った。

 

 そして、この〈コラール〉に続く音楽(attaccaで演奏する)として、《花に寄せて》の第1曲〈たんぽぽ〉を演奏する。ホ長調で重々しく響くバッハの〈コラール〉が、大きなドミナント(属和音)の役割を果たす。これが、トニック(主和音)であるイ長調の〈たんぽぽ〉に解決するような仕組みにした。

〈たんぽぽ〉前奏の冒頭にあるアルペジオに誘発されるソプラノの音型は、まるで「綿毛」が「神秘の風」に吹かれて、空に舞い上がる瞬間のようである。そして、「神秘の風」の上昇気流に乗って、高く、高く、そして、遠く、遠く、異次元のところへと「旅」をしていくように感じる。

 ・・・つまり、星野さんが壮絶な体験の中で見出された「絶望の叫び」——「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(『詩篇』130章1-2節)が、イエス・キリストの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(『マタイによる福音書』11章28節)の言葉に導かれて「旅」をしてほしい・・・と、願いを込めているのである。今、まさに、星野さんの魂が、「たんぽぽの夢」、つまり「綿毛」に乗って、イエス・キリストの元へと向かうことができるように・・・。

 ・・・僕はこの〈コラール〉を発見したとき、「これではないかな?」と思った。そして、「この時ばかりは頭が熱くなった。」「待っていた言葉はこれか?」「これでいいのか?」「僕は繰り返しくりかえし読んでみた。」(髙田三郎:随想集『くいなは飛ばずに』)・・・と、高田三郎が、高野喜久雄の詩〈海〉に出会った瞬間を、僕自身が再現したように思えるほど、感動的な体験だった。

 

新実徳英:合唱組曲《花に寄せて》 詩:星野富弘

♪1〈たんぽぽ〉

♪2〈ねこじゃらし〉

♪3〈しおん〉

♪4〈つばき・やぶかんぞう・あさがお〉

♪5〈てっせん・どくだみ〉

♪6〈みょうが〉

♪7〈ばら・きく・なずな〉——母に捧ぐ——

 

 ここに、《花に寄せて》の各曲を説明する必要はないと思うが、《花に寄せて》で使用された星野さんの詩画がつくられた年代を記しておくことにする。新実徳英さんは、星野さんの詩画集『風の旅』(立風書房)を読んで感銘を受け、この合唱組曲を作曲したそうだ。そして、「ねこじゃらし」「つばき」「みょうが」「ばら」「きく」「ぺんぺんぐさ」「しおん」「てっせん」などが収められた第二章のタイトル「花に寄せて」を、組曲のタイトルとした。

 

「たんぽぽ」(1980年)

「ねこじゃらし」(1981年)

「しおん」(1980年)

「つばき」(1979年)、「やぶかんぞう」(1980年)、「あさがお」(1980年)

「てっせん」(1981年)、「どくだみ」(1980年)

「みょうが」(1981年)

「ばら」(1978年)、「きく」(1977年)、「なずな」(1979年)

 

 昨年の10月に足利市民合唱団のバス遠足で「富弘美術館」を訪れた時、たまたま「きく」が展示されてあった。・・・僕はそこから、しばらく動くことができなかった。なぜなら、そこに、僕の生まれ年、1977年と記されてあるのを見て、妙に親近感を覚えたからだ。・・・この組曲は、僕が生まれ育った時期の作品ばかりが集められている。僕は、星野さんと同じ空気を共有しているのだ・・・そう思うと、とても嬉しくなった。僕はアルバムをめくるように、あの頃の空気を思い出す。庭の草木や、裏の桑畑・・・。父の声や、母の笑顔・・・。・・・懐かしさ。・・・遠い記憶。

 

●アンコール

♪財津和夫(作詞・作曲)、初谷敬史(編曲):〈切手のないおくりもの〉

 コンサートの最後に、アンコールを用意した。これを含めてコンサートは完結するので、アンコールではあるが、ここに説明を加えることにする。

 〈切手のないおくりもの〉は、今回の「弔い」のテーマにぴったりの歌だと思い、選曲の段階で、既に決めていた曲である。しかし、なかなかいいアレンジが見つからなかったので、僕がアレンジするべきなのだろう・・・と思っていた。

 ・・・コロナ期に受けた「予言」もあって、この演奏会は、僕にとって特別なものになる・・・と、どこか思っていたところがある。それならば、もし僕がアレンジすることができるのであれば、そうしたほうが一番いい、と考えていたのだ。とは言っても、なかなか上手くいかなかったので、しばらく放置していた。(僕の常套手段である。笑)・・・僕がアレンジできなければ、アンコールはやらない、とさえ思っていた。

 そして、コンサートも迫り、もう無理だ・・・と諦めかけていた時、星野富弘さんの訃報を受けた。・・・そこで、決定的なアイデアを思いついた。これで、このコンサートが完成された・・・と、僕は思った。

 そのアイデアとは、〈切手のないおくりもの〉の前奏に、《花に寄せて》の1曲目〈たんぽぽ〉の前奏を流用したらどうか、というものだった。・・・この歌を「おくりもの」として、「わたしの好きなあなた」へ届けるために、「たんぽぽの夢」、つまり「綿毛」を利用すればいい、ということを思いついたのだ。この歌を「綿毛」が抱える「種」のようにして、「神秘の風」の上昇気流に乗せて、高く、高く、そして、遠く、遠く、異次元のところへと「旅」することができるように・・・との願いを込めるのである。

 このアイデアを形にするために、僕は、調性を工夫した。《花に寄せて》の終曲〈ばら・きく・なずな〉——母に捧ぐ——は、変ト長調で終わる。そこで、〈切手のないおくりもの〉の前奏のメロディを、「嬰へ音」から開始することにした。「嬰へ音→ト音→ロ音→ハ音」(1曲目〈たんぽぽ〉の前奏4小節目からのメロディ)という風に。つまり、終曲〈ばら・きく・なずな〉——母に捧ぐ——の「変ト音」が、〈切手のないおくりもの〉の「嬰へ音」へと、バトンタッチされたわけだ。「変ト音」と「嬰へ音」は、「異名同音」と言い、同じ音である。従って、終曲〈ばら・きく・なずな〉の「母への想い」という大切なものをひとつ持って、〈切手のないおくりもの〉において、「綿毛」は「旅」をしていくのである。それが異次元の調性でありながら、同じ音を共有する「変ト音」から「嬰へ音」への受け渡しである。

 僕は〈切手のないおくりもの〉の前奏を、ホ短調から開始することにした。そして、それが歌になる時、平行調であるト長調へと変化する。短調から長調へ。つまりこれは、賛美歌238番〈疲れたる者よ〉と同様の構成(ト短調→ト長調)となり、今回のテーマにピタリと合う。しかも、終曲〈ばら・きく・なずな〉——母に捧ぐ——の変ト長調から、〈切手のないおくりもの〉のト長調へ、次元が上げられることとなる。つまり、「綿毛」は、「こちら」から異次元の「あちら」へと引き上げられたことになるだろう。

 このようにして、《花に寄せて》と〈切手のないおくりもの〉は、途切れることのない同じ流れに乗って進むことが可能となった。従って、第二部は、バッハ〈コラール〉から、アンコールまで、ひとつのストーリーとなった。『詩篇』の「深い淵の底」から、星野さんの魂は「たんぽぽの夢」、つまり「綿毛」に乗って、イエス・キリストの元へ旅をし、絶望を共にし、共に苦しんでくれた「わたしの好きなあなた」、つまり母の感謝へと、繋がっていく。母に、この「たんぽぽの夢」の神秘を伝えたい・・・。今、星野さんの「綿毛」と、お母さまの「綿毛」は、「あちら」へと確実に飛んで行っていることだろう。そして、「あちら」で再開できることを、僕は強く願っている。

 

 ・・・僕が考えたテーマ「母に捧ぐ、たんぽぽの夢。」が、ここに完成した。(・・・この完成は、当然の結末である。そのように「予言」されていたのであるから・・・。)

 

○「綿毛」たちは、そよ風に吹かれながら、旅立つその時を、今かいまかと待っている。遠く、遠く、飛んでいきたい、と。

 

by.初谷敬史

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