皆さま、お元気ですか?きぼうです。

 

レストランでホテル会場で、親しい方々と

お食事の機会も多くていらっしゃるのでは?

 

盃も進めば上機嫌、

お帰りの際は、お足元にお気をつけ下さいね。

 

この記事には個人的な内容も含まれて居ります、

 

ご気分害される方、いらっしゃいましたら

申し訳ありません。

 

 

先日、特別で忘れられない出会いが

ありました。

 

 

少し前からブログ拝見しておりますN様は、

婦徳の鏡でいらっしゃるがゆえに

 

いろいろと耐えがたき日々に向き合われたりも

おありのご苦労なさったお方ですが

 

今はお孫様にも恵まれ、心豊かな日々を

お過ごしでいらっしゃいます。

 

 

先日、大テーブルいっぱいのお手製、

クリスマスの西洋料理をお載せなので、

 

興味深くお料理を拝見しておりましたら

 

それらが喜んでいたり、輝きに満ちていて、

なぜか涙が溢れてきて止まりませんでした。

 

 

とっても美味しそうなのでコメントを

差し上げた後、

 

”考えてみれば、私には団らんも

お写真のような豪華なお食事も、

味わった記憶がほとんどないよなァ

 

だからと言って、、、なぜ、涙?”

しばし思索していました。

 

 

暫く後のお返事には(原文お借りしています)

 

「クリスマス料理は、至らない母としての

せめてもの贖罪の気持ちもあります。
だから、きぼう様が涙されたのかと思います。


長女が奇しくも申しました。


『浮世離れをしたお母さんだったから、

私は苦労をした』


そうだと思います。

今、母として最後に出来る事をしています。
それが、私の家族への想いでもあります。」

 

 

拝見した後、全身にものすごい衝撃が走り

床に倒れ込んでしまいました。

 

 

天井を見つめて十数年間口にしていない

 

「お、母さ、、ん、、、」

 

そうして転がったまましばらくの間、

嗚咽しました。

 

 

お嬢様のそのお一言は、

 

まだ私がおかっぱ頭だった頃から30年以上

表したかった感情、

 

言葉として口にしたくても

どうしても、どうしても出来なく、成長し、

 

心の奥の奥にしまい込み、

しまい込んでいるのも忘れていたかの様な

感情だったのです。

 

よもや、

2千数百キロ先の祖国のどちらかで、

お顔はもちろん、

お名前すらも存じ上げないお譲様から

 

そのお一言を言い表される、とは、、、

 

 

私の(亡)母については、

 

母憎し 母 恋し ある長女の視点 1

母 やるせなし 母恋し ある長女の視点 2

母、、、改め、おかあさん ある長女の視点 3

 

幼い頃から、

”母の立場”で母を理解する、という事で

自分の感情を押し込めて生きてきた私、

 

教会の活動で、留守がちな母の為

度々年子の妹や弟の母代わりを

努めなければならなかった私は、

 

曲がった事が大嫌い、

いじめに遭遇すれば見て見ぬ振りできず、

 

かばう為駆け寄れば、

自分も切り傷やあざだらけの女の子でした。

 

級友から好かれてもいましたが

親友からのいじめを経て、

”人間とは何だろう”、と常に自問していました。

 

 

群れて騒ぐよりも孤高を愛すれば

 

他の人の気持ちや心の中を感じ取って

ズバリと言い当てたりもするので

 

私に付けられたあだ名は

正義の味方ならぬ正義の”巫女さん”。

 

 

そんな私が一人暮らしを始め出して

スーパーで真っ先に手に取ったご馳走が

(お恥ずかしいながら)

”3個パック、全部食べてもいいんだよなあ!”

異常に興奮したのを覚えています。

 

おやつもあまりなく、思い浮かぶご馳走は

母の活動には批判的でも

 

伯母さんが時折分けてくれた

 

ぼたもち、

 

地元岡山名物・煮穴子のぬく寿司!

せいろで蒸して頂くのでぬくぬくホカホカです。

 

(画像お借りしています。)

 

そして父が持ち帰る法事の仕出し、くらい。

 

明治の終り生まれの祖母が

厚いだし巻きや海老フライを眺めては

 

「ホウ、ぼっけぇごっつうぉじゃの。」

(岡山弁ですごいご馳走だね、の意味)

 

そのかたわらでぶりの照り焼きを

つまみ食いしてしまったりもしました。

 

後はアルバイト先の日本料理店の厨房で

立ったままかき込んだ賄い飯!でしょうか?

 

 

母も家にいるときはご飯を作ってくれましたよ、

でもどんなおふくろの味だったのか、、、

 

菜っ葉の煮付け、筑前煮、良く思い出せないです。

薄味でやさしい味付けだったような、、、?

 

一家そろって外食の思い出もほとんどないです。

 

母は献金ために節約していました。

 

 

とにかくお金の事で母に心配かけたくないので

自立ばかり考えていました。

 

 

進学先の大阪で一人暮らし、

働きながら留学の夢の為にがむしゃらだった

20歳過ぎの頃、


世の中で交わされる愛や性の矛盾に

限りなく葛藤しました。

 

私を大人の世界にいざなおうとする、

年上男性に心惹かれながら、

 

”親を心配させたくない”

 

それだけは、いつも胸の中にありました。


 

道ならぬ想い、と純潔、、、

 

だから真の愛、理想家庭を説く母の教会、

そのための実践生活に惹かれて

 

同じように家族や愛の問題の傷あとで

苦しむメンバー同士励まし合いながら

 

彼ら信仰の兄弟姉妹通して

「 擬似家族 」を形成していきました。

 

(夢の留学は、まずアメリカの短期大学で

Funeral Service 葬儀サービスを学ぶ為

入学許可を得て手続き後、渡米直前でしたが

 

旅立たれた方のお手伝いよりも

生きることに心悩む方々をみ言葉と献身で

お支えする宣教師を決意しました。

 

その事を最近葬儀屋ナベちゃん様にお伝えすると、

「やっぱり!なんとなく親近感ありましたから」、と

プロの方からのもったいないお言葉。苦笑)

 

 

私にとってはこの擬似家族の存在の方が

自分の全てを受け入れてくれて

 

温かく包み込んでくれた”居場所”で

やっと深い安堵感を得たのを覚えています。

 

 

お姉さん達にはお風呂上りにドライヤーで

髪を乾かしてもらっている時に

 

”人に甘えるってこういう事なのかな?”と

恥ずかしいし、うれしかったです。

 

自身も一番強気な私が教会の教えに

馴染んでいってくれている事を喜んでくれました。

 

 

このブログを長くご覧の皆さまの中には

過去私がどの宗教団体に所属していたか

ご存知の方もいらっしゃる、と思います。

 

 

警察庁公安部からもマークされている

団体でもあり、

 

成人には信教の自由があるといっても、

息子、娘の信仰を辞めさせたい親御さんが

ドアを蹴破って連れ戻しに来たケース、

 

ひどくは共産主義者でもある

既成教会牧師達が

 

脱会させたい親御さん方に

法外な見返り金をふっかけて

 

信者の拉致・監禁脱会ビジネスを

長らく続けており、拉致された兄弟姉妹達は

 

棄教の為、多くの場合、

見張りの厳重なマンションの一室にて

 

食事を与えられない、日常的虐待、精神破壊、

強姦、果ては自殺に追い込まれたりしたのです。

 

被害者は四千人にも及びます。

 

 

そんな中、

 

真夜中に裸足のまま命からがら

逃げ帰って来たり、

 

脱出が出来ても監禁時のトラウマで

日常生活がままならなくなったケース、

 

あるいは二度と戻ってこなく、行方知れずの

兄弟姉妹、

 

かつて私の周りには

そういったメンバーばかりでした。

 

 

一人いなくなれば(拉致監禁されれば)

必ず他の兄弟姉妹の身元も自白強要される為、

 

一緒に寝起きしていてどれだけ親しくなっても

実家や連絡先の交換は出来ませんでした。

 

共に涙を流して祈り合う慕わしい姉妹の名前も

本名だったのかどうかも、分からないです。

 

映画「沈黙」心を寄せる隠れキリシタン達を

想います。

(もちろん、この作品の場合正しい時代考証も

すべきですが)

 

そして、「今なお」我が国のどこかに

拉致監禁されている現役信者もいるのです。

 

それはもしかして、お世話になった先輩かも、、、

 

迫害されればされるほど内部の結束は固くなり、

信仰の炎は燃え上がります。

 

 

この様に、私は祖国に居た時、

 

ある意味非常に特殊な環境に

 

身を置いていた、と言わざるを得ません。

 

教えを広める為、いくつもの任地国で歩んで

最後の最後は、

 

この台湾の地で自己脱会という

選択を取りましたが

 

この境地にたどり着くまで何年も何年も

形容しがたい心情の過程を味わいました。

 

”棄教は母が一番悲しむ、それは出来ない。”

 

”空が割れて落ちてくるのではなかろうか?”

 

”私は一体どうなるのだろう?”

 

 

今現在、自分の心境としましては

この教会組織は我が国から

なくなってしまえばよい、とも断言します。

 

私は薄情者なのでしょうか?

 

いいえ、

命がけで歩み、全てを捧げ尽くした

組織だったからこそ愛を持って断言するのです。

 

なぜなら究極的な命題として、

 

『我は真っ当な日本人であるか、否か』に

答えることが出来ないからです。

 

それどころか自虐史観を信じきっています。

 

 

しかし皮肉な事に

この教会組織の教会員こそ古きよき

特徴的な日本人だと言えます。

 

先の大戦後信教の自由により、

我が国でも入信してきたのは

 

戦後昭和20~30年代生まれの、

左翼運動過激化に危機感を持った

 

当時の若者達でした。

 

実家に被害が及ばないように縁を断ち、

学業を放棄しても反共活動に

身を投じ、

 

殉死の覚悟で真新しい白の下着を身に着け

数百人規模の共産党集会に

 

討論の為たった5~7名で乗り込んでいった

お兄さんお姉さん方。

 

乳飲み子を他の家庭に預けても

スーツケース一つで世界宣教に飛び出した

お兄さんお姉さん方。

 

「大義に生きる」の大義が、

世代によっては日本国赤化阻止、

 

その先輩方の伝統に則(のっと)り

私自身も世界宣教の道を行きました。

 

 

個人の生活よりか公の精神、

自己の家庭を犠牲にしても、

 

我が国の為に尽くす

 

これはその時期時期に

 

教祖=再臨主・神からの願い=日本の為、

 

教会員は

その様な思考に陥っています。

 

 

私の母。

世界でたった一人のおかあさん。

 

洋裁師の夢を追いかけて一途だった頃

請われて嫁いだ先では夫の女癖、姑の仕打ち、

 

耐えられずにお腹の子を堕ろして

 

実家に身を寄せれば、再びの縁談話。

 

再婚夫(私の父)から事あるごとに”出戻り嫁”、と

やじられた私の母が、熱心に水子供養や

 

理想家庭を説く宗教団体に惹かれていったのも

大人になった今なら分かる様な気がします。

 

 

仲の良い幸せな家庭に憧れて

夫や子供達と共に信仰生活を送りたい願い。

 

このままでは滅んでいく日本を守りたい、と

教会を支える為

 

献金活動に無理に無理を重ねて、

癌を患い、

52歳で旅立ちました。

 

純粋無垢であったからこそ、

 

家中のお金をかき集め、

 

父が喜んで会社からもらってきた

ペア旅行券も

 

ペア腕時計も何もかも

換金して献金してしまうそんな母でした。

 

 

あまりの徹底振りに反発する私も

教会への献身は

 

母も無邪気に喜んでくれるので

親孝行だと信じていました。

 

 

あれっ?お父さんは?

 

学生の頃までは、母のせいではないのに

出戻り嫁、となじる父が嫌いでした。

 

でも大人になるにつれ、

真面目に働いて、女性問題がなかっただけでも

立派だな、と思っています。

 

以前は千葉に嫁いだ妹から電話で

様子を聞いていましたが、数ヶ月前から

半月に一回手紙を書いて送っています。

 

早く帰国したいです。

 

早く帰国して好物のままかりの酢漬けを

作ってあげたい。ご飯が進みますよ~

 

(画像お借りしています)

 

”きぼうさんは公開記事に身内の恥を晒して

恥ずかしくないのか?”とお感じの方も

いらっしゃる事でしょう、

 

ごもっともです。

 

私ももっと気持ちよく

皆さまに読んでよかった、と

思って頂ける記事を書いていきたいです。

 

同時に『日本はいい国だ!』と叫んでも、

 

世の中には親子の問題でどうしようもなく

苦しんでいて、

 

子供達は傷つけられたまま成長し

 

親との関係でどうにもならない程関係が

こじれている方々ももおられます。

 

同じ傷を持つ者同士寄り集まって、

仮の家族をつくって幸せに安全に

暮らしている方々もおられます。

 

そういった方々に

「元の親を敬いましょう。」と伝える場合、

 

私たちは具体的に

 

どのような方法を

指し示す事が出来るでしょうか?

 

 

今回の記事冒頭、ご馳走のお話は、

 

寒い冬の夜、裸足でつま先立ちしながら

 

窓ガラスの中を覗き込んでいる

 

見ず知らずの幼い私にも

 

「さあ、召し上がれ

 

お麗しいN様が、お声掛け下さった様な

 

温かい感覚に陥りました。

 

 

そして、

母がこしらえてくれたおにぎり一個、

 

味噌汁一杯にも

どれだけ感謝を伝えていたかな?

 

そんな風にまた思い返しています。

 

 

『お母さん、ありがとう。

 

今までいろいろあったけど、

 

あたしはお母さんの倍以上、

 

生き抜いて頑張るけんね。』

 

 


 

亡くなるまで、ずっと変わらずに

可愛らしい母でした。