万葉集のつまみ食い203 | 日本の古代探索

日本の古代探索

古事記・日本書紀・万葉集の文や詩を通して我々の先祖の生きざまを探ってゆきたいと思います。

2206・眞十鏡 見名淵山者 今日鴨 白露置而 黄葉將散

 

   まそかがみ みなふちやまは けふもかも しらつゆおきて もみぢはちらむ

 

 訳:白い(朝の)月が掛かっている 南淵山は 今日も白露が降りて 

   黄葉の葉が散っていることだろう

 

**「南淵山」は奈良、高市郡で橘寺の傍、瀧の名所とある(吉田東伍)。

 

 *「まそかがみ」と言う言葉が詩には良く出て来ます。「まそ」は「麻(の繊維・布)」で 

  「白い」という意味ですから、「まそ鏡」は直訳すると「白い鏡」ですが、詩の中では「白

  っぽい鏡」と解釈した方が良いようです。即ち、昼間とか早朝の空の「白くうっすらとして 

  いる月」や、「鏡」としては「白っぽくなった鏡:古びた鏡」を表現していると思われる詩

  が多いからです。当時、女性にとって鏡は貴重品ですが、そうそう新品の鏡にいつも取り替

  えていることは考えられません。当然、長い間使っていれば古びて鏡面に曇りも出て来ます

  から、その状態を「まそかがみ」と言っているのでしょう。

  又、「白っぽい月」は明け方や昼間の情景を表すのに最適なのです。

 

2211・妹之紐 解登結而 立田山 今許曾黄葉 始而有家禮

 

   いもしひも とくとむすびて たったやま いまこそもみぢ そめてありけれ

 

 訳:彼女と紐を解く(愛を確かめ合う)といつものように (又、紐を)結んで 

   出てきた立田山は 今丁度、まさに黄葉で 染まっているのだなあ

 

**「とくと(解くと)」の「と」は接続助詞で「~ときはいつも」。

 

 *「紐を結ぶ」のは、今度会うまで他の人が紐を解かない約束。

 *愛を確かめ合って、清々しい気分で見る立田山の黄葉は、また格別に美しく感じられるな

  あ!

 

2217・君之家乃 初黄葉 早者落 四具零乃雨爾 所沾良之母

(初黄葉)は(意改:之黄葉)

 

   きみしへの そむるもみぢは はやはふる しぐれのあめに ぬれひつらしも

 

 訳:貴方の家の 色づき始めた黄葉は 激しい時雨の雨で 

   濡れてびしょびしょになっているでしょうね

 

**「はやはふる」は「はや:早く+はふる:鳥が羽ばたきをする」で「バタバタと・激し

  く」。「ねれひつ」は「濡れてびしょびしょになる」

 

 *私の所に訪ねてくる貴方もびしょびしょに濡れているのかなあ。

 

2218・一年 二遍不行 秋山乎 情爾不飽 過之鶴鴨

 

   ひととせに ふたたびゆかぬ あきやまを こころにあかず すぐしつるかも

 

 訳:一年に 二度とは来ない 秋の山を 心が飽きることも無く 

   時を過ごしたことだなあ

 

**「あかず」は「あか:(あく:飽く:飽きる)の未然形」+ず:打ち消しの助動詞。

  「すぐしつる」は「すぐし:(すぐす:時を過ごす)の連用形+つる:完了の助動詞(つ)

  の連体形」。

 

 *従来は「あかず」を「満足しない状態」と訳しているようですが、ここは「飽きることな

  く:じっくりと:充分に」という意味です。

 

2221・我門爾 禁田乎見者 沙穂内之 秋芽子為酢寸 所念鴨

 

   わがかどに いみたをみれば さほうちし あきはぎすすき おもほゆるかも

 

 訳:我が家の前から 禁(齋(い)み)田を見たら (その)穂の中に

   秋萩やススキ(が在るように)思えることよ

 

**「禁」は「いみ(忌み・齋み)」。「禁田(いみた)」は神社(皇室)のための田、或いは

  官田として農民が請け負わされた田のことか。実際、「いみた」と言ったかは不明。

  「さほうち」は「さ:接頭語+ほ:穂+うち:内」で、「稲穂の中」。

 

 *手入れが行き届いていないなあ。