2206・眞十鏡 見名淵山者 今日鴨 白露置而 黄葉將散
まそかがみ みなふちやまは けふもかも しらつゆおきて もみぢはちらむ
訳:白い(朝の)月が掛かっている 南淵山は 今日も白露が降りて
黄葉の葉が散っていることだろう
**「南淵山」は奈良、高市郡で橘寺の傍、瀧の名所とある(吉田東伍)。
*「まそかがみ」と言う言葉が詩には良く出て来ます。「まそ」は「麻(の繊維・布)」で
「白い」という意味ですから、「まそ鏡」は直訳すると「白い鏡」ですが、詩の中では「白
っぽい鏡」と解釈した方が良いようです。即ち、昼間とか早朝の空の「白くうっすらとして
いる月」や、「鏡」としては「白っぽくなった鏡:古びた鏡」を表現していると思われる詩
が多いからです。当時、女性にとって鏡は貴重品ですが、そうそう新品の鏡にいつも取り替
えていることは考えられません。当然、長い間使っていれば古びて鏡面に曇りも出て来ます
から、その状態を「まそかがみ」と言っているのでしょう。
又、「白っぽい月」は明け方や昼間の情景を表すのに最適なのです。
2211・妹之紐 解登結而 立田山 今許曾黄葉 始而有家禮
いもしひも とくとむすびて たったやま いまこそもみぢ そめてありけれ
訳:彼女と紐を解く(愛を確かめ合う)といつものように (又、紐を)結んで
出てきた立田山は 今丁度、まさに黄葉で 染まっているのだなあ
**「とくと(解くと)」の「と」は接続助詞で「~ときはいつも」。
*「紐を結ぶ」のは、今度会うまで他の人が紐を解かない約束。
*愛を確かめ合って、清々しい気分で見る立田山の黄葉は、また格別に美しく感じられるな
あ!
2217・君之家乃 初黄葉 早者落 四具零乃雨爾 所沾良之母
(初黄葉)は(意改:之黄葉)
きみしへの そむるもみぢは はやはふる しぐれのあめに ぬれひつらしも
訳:貴方の家の 色づき始めた黄葉は 激しい時雨の雨で
濡れてびしょびしょになっているでしょうね
**「はやはふる」は「はや:早く+はふる:鳥が羽ばたきをする」で「バタバタと・激し
く」。「ねれひつ」は「濡れてびしょびしょになる」
*私の所に訪ねてくる貴方もびしょびしょに濡れているのかなあ。
2218・一年 二遍不行 秋山乎 情爾不飽 過之鶴鴨
ひととせに ふたたびゆかぬ あきやまを こころにあかず すぐしつるかも
訳:一年に 二度とは来ない 秋の山を 心が飽きることも無く
時を過ごしたことだなあ
**「あかず」は「あか:(あく:飽く:飽きる)の未然形」+ず:打ち消しの助動詞。
「すぐしつる」は「すぐし:(すぐす:時を過ごす)の連用形+つる:完了の助動詞(つ)
の連体形」。
*従来は「あかず」を「満足しない状態」と訳しているようですが、ここは「飽きることな
く:じっくりと:充分に」という意味です。
2221・我門爾 禁田乎見者 沙穂内之 秋芽子為酢寸 所念鴨
わがかどに いみたをみれば さほうちし あきはぎすすき おもほゆるかも
訳:我が家の前から 禁(齋(い)み)田を見たら (その)穂の中に
秋萩やススキ(が在るように)思えることよ
**「禁」は「いみ(忌み・齋み)」。「禁田(いみた)」は神社(皇室)のための田、或いは
官田として農民が請け負わされた田のことか。実際、「いみた」と言ったかは不明。
「さほうち」は「さ:接頭語+ほ:穂+うち:内」で、「稲穂の中」。
*手入れが行き届いていないなあ。