ロンジン・スモールセカンド
先日、同僚の結婚式に参列してきました。礼服に合う腕時計として久しぶりにロンジン・スモセコの出動です。
本来なら、客として招かれた場合は腕時計をつけていくべきではないと教わったことがあります。招いた側に、時間を気にさせてはいけないからです。その会が結婚式ならなおさらです。
主役は婚礼を挙げる二人であって、参列者は脇役としての分をわきまえ、粗相の無いように空気を読んで、慎ましやかに、そして、あるときは賑やかに、新郎新婦のために時間を惜しまず過ごすべきなのです。
ですが私は時計好きのあまり、腕時計が失礼に当たるかもしれないと思っていながら、ないのはどうしても寂しくて、腕時計を身につけていく選択をしてしまいました。
こんな時、控えめで品のある、美しい薄型の腕時計があると助かります。それがロンジン・スモセコです。
↑控えめながら上品でシンプルな紳士時計です
こいつならば決して目立つことなく、いや、それどころか礼装を引き立ててくれるでしょう。
私にとっての最高礼のつもりです。今日ばかりは慎ましく、よけいなことは一際せずに、ロンジン・スモセコのように控えめに過ごすのだと思っていました。
と、そんな独りよがりな配慮を胸に、同僚の結婚式の会場に到着しました。
教会での宣誓も無事終わり、披露宴会場へと進んだとき、色々と思うことがありました。
結婚式を挙げた同僚に我先に祝賀を届けに行きたいところなんですが、結婚式には同僚の友人達を始め縁者がたくさんいます。もちろん新婦さん縁の方々も大勢います。たがが職場の同僚がしゃしゃり出ては不作法だと思いました。
しかし、席に着いたままというのもなんだかなあと思い煩い、私はとてもおとなしい人になって、出された食事を食べていました。
もう一つ、私をおとなしくさせている事情がありました。それは私が教員としてこの会に出ていることでした。
教員である同僚の同僚でありますから、周囲の方々は、どうしても私を教員として見ます。
そうなると、どうしても教員の仮面を外せなくなります。哀れな杞憂なんですけれども、学校の先生がそばにいたら、周りの参列者の方々の中にも気を遣う人がいるだろうなと心配になるのです。
私はオフの楽しい時間にも、うっかり教員であることが発覚してしまい、「いやー、先生でしかたか~。こりゃどうも。」、みたいなことを言われ、その後は何故か、教え子でもなんでもない人から先生と呼ばれ、完全に距離をとられてしまった感じがして寂しい思いをした経験がたくさんあります。
最近では教員の仮面は、もう、顔の一部になりつつあります。最後に外したのはいつだろう。10年前くらいに大学の友人と会ったときかな。あいつらと一緒のときだけは職業を意識しなくて済んだ。
もしかしたら周りに気を遣わせているかもしれない・・・。そんな堅苦しい空気を作っては、いかん、と、そんな心配が募ると、とってもバカな振る舞いを逆にしたくなります。無礼講の空気を作りたくなるとでも言えばいいのか、くだらないシャレを言って自分で笑ったり、いい年をして子供っぽい行動をとったり、自分でもつまらない自意識をもってバカだなあと思うことがしばしばあるのです。
このことは、私の最近の授業を振り返っても顕著な傾向です。やっぱり自制しないといけません。
私が高校生の時、授業中、すぐに自分の身の上を始めてしまう教師がいました。当時は生徒側の立場から見ていた私は、その先生の授業を快く思っていなかったはずです。最近の私は生徒の求める教師像を、おかしな自意識のためにはき違えているのかもしれません。
私は、同僚の結婚式に、教員という立場で参列し、教員の仮面というようなものについて考えてしまいました。
↑いつも、こんなように凛々しくしてると疲れるよね
堅苦しい職業についてしまい、心しばられて生活している人は別に教員だけではないと思いますけど、私は、結婚式で脇役に徹しようとすればするほど、どうすべきなのかがよくわからなくなり、おとなしい人でいざるをいませんでした。つまらないお客でなかったらよいのだけれど。
最後に、たぶんこのつたない文章を最後まで読んでくれるであろう、新郎Sさん。ぜんぜん上手にお祝いの言葉を伝えてあげられていないのですが、心からお祝い申し上げております。素晴らしく立派な結婚式でした。おめでとう。ご招待頂き、感謝しています。