さて、「眞子内親王の危険な選択」の読後感想を書かせていただきましたが、それによって本棚に読まないまま置いてあった、「伏見宮 もうひとつの天皇家」浅見雅男著を読みはじめました。ぜひ皆様と一緒に考えたいなと思い、「はじめに」の部分を引用させていただきます。2012年10月25日発行となっている本です。

 

 

 

 あとがきも後ほど引用させていただこうかなと思っています。たぶん、安積先生の「眞子内親王の危険な選択」から入って、この本へ行くと、今般の有識者会議の結論の出し方に対する皆様の考え方が定まるのではないかなと思います。本書にも著者が書かれていますが、最後の部分です。「本書において伏見宮の歴史をみていこうとするのは、昭和の敗戦後に消滅したこの宮家や、その“分家”の宮家についての事実を、なるべく多くの人びとに知ってもらいたいからである。それは天皇という存在が日本に必要ないと考える向きにはよけいなお節介かもしれないが、そうでない人びとにとっては、なにがしかの意味があることはまちがいない。事実にもとづいた、冷静で有意義な議論の展開こそが、なによりも必要なのである。」ということです。女性天皇や女系天皇の知りもせず安易に「現代は~」などと仰せになる方々が少しでも理解なさることを祈念しております。

 

はじめにーなぜ伏見宮家なのか

 皇籍離脱した人びとの“共通点”

 昭和22年(1947)10月13日午後1時、皇居内で皇室会議がひらかれた。

 皇室会議は現行憲法とともに公布、施行された新しい皇室典範にもとづく国の機関である。メンバーは成年に達した皇族の互選で選ばれた皇族二名、衆参両院議長・副議長、内閣総理大臣、最高裁判所長官、長官以外の最高裁判事一名、それに宮内庁(初め宮内府)長官の十名。皇位継承順の変更、摂政の設置、皇族の結婚、皇籍離脱など皇室に関する重大事を決めることになっていたが、この日の会議が発足してから初めての集まりだった。

 出席したのは高松宮宣仁親王、秩父宮勢津子妃、片山哲総理大臣、松岡駒吉衆議院議長、田中万逸同副議長、松平恒雄参議院議長、松本治一郎同副議長、三淵忠彦最高裁長官、霜山精一同判事、それに松平慶民宮内府長官である。

 議題は11の宮家に属する老若男女51名の皇族の皇籍からの離脱の可否だったが、会議は満場一致で離脱を認め、翌14日、皇族たちは一般の日本国民となり、各宮家も消滅した。皇籍離脱をした人びとの名を宮家別にあげると、表①のようになる(宮家五十音順。各宮家皇族年齢順)。 

 

 明治初年から昭和の敗戦までのあいだ、日本に存在した宮家は18だったが、この表に出ていないのは有栖川、華頂、桂、小松、高松、秩父、三笠の七家である。そのうち、有栖川、華頂、桂、小松宮家は、いずれも家督を継ぐ男子がいなかったために、明治、大正の間に絶家となった。また、高松、秩父、三笠宮家は大正天皇の皇子、すなわち昭和天皇の弟宮(直宮)たちが立てた宮家であり、その血筋のゆえに敗戦後も存続した。したがって昭和22年10月に消滅した宮家は十」ということになるわけだが、これらの宮家には“共通点”があった。それはいずれも伏見宮の血統に連なるということである。

 具体的に言えば、久邇、山階、梨本、北白川宮家(小松、華頂宮家も)は王政復古前後に、また東伏見宮家は明治36年(1903)に、それぞれ伏見宮家の王子が立て、賀陽宮家は明治33年、朝香、東久邇宮家は明治39年に、久邇宮家の王子が立てた。さらにやはり明治39年に北白川宮家の王子が竹田宮家を立てた。そしてもともと伏見宮家とは系統の異なる閑院宮家にも、明治5年に伏見宮家の王子が養子に入って継いでいる。このように、“本家”の伏見宮も合わせ、11の宮家は同じ血脈でつながっているのである。

 これを別の面から見れば、昭和敗戦後の皇族の皇籍離脱、宮家消滅は、伏見宮系統が長年にわたる天皇家との関係を断たれたできごとだったということになる。第一章で説明するように、伏見宮は崇光天皇(北朝第三代。北朝在位1348~1351)の第一皇子栄仁親王(名前は「よしひと」とされることが多いが、「なかひと」だとする説もある)に始まる宮家であり、代を重ねるにつれ天皇家との血縁関係は遠くなる一方だったが、その王子たちは時の天皇や上皇の猶子となり、親王宣下を受け、皇族としての待遇を受けていた。その歴史がついに終わったのである。

 

議論と事実

 その後、これらの宮家や元皇族たちへの世間の関心はどんどん薄くなっていった。一般社会のなかでとまどう元皇族たちの姿を、週刊誌などが面白おかしくとりあげるようなことはあったが、かつて存在した宮家について真撃に考えてみようとする動きは、ほとんど見られなかったと言っても過言ではなかろう。ところがここ数年、旧宮家、元皇族について言及する人びとがあらわれてきた。そのきっかけは、近い将来、男系による皇位継承が必ずしも確実ではなくなった状況に対応するために、小泉純一郎政権が皇室典範を改定する動きを始めたことであった。

 政府の諮問を受けた有識者会議は、平成17年(2005)秋、女性天皇、あるいは女系天皇の可否を検討する必要性にまで触れた答申を提出したが、男性による皇位継承の“伝統”を守らなければならないと考える人びとはそれに反発し、男性天皇を確保する方策として、旧宮家の復活や、その一員である人たちを皇族とすることを主張したのである。

 その結果、この問題をめぐって活発な議論がまきおこった、と述べたいところだが、有体に言って、そこでおこなわれたのは、かなり無意味な言葉のやりとりにすぎなかった。言うまでもないが、議論が有効におこなわれるためには、事実をきちんと把握することが不可欠だとの認識が共有されなければならない。もちろん、事実をどう解釈するか、どう評価するかについてはさまざまな立場がありうるが、事実そのものを先入観なしにながめ、確かめようという姿勢がなければそもそも議論は成立しない。

 一例をあげよう。あのころ、一部のマスコミがひとりの男性を“元皇族”として登場させた。それが本人の意思にそったものかどうかはわからないが、この男性はたしかに廃絶した11宮家のひとつの血を引いてはいた。祖父は昭和22年10月13日まで皇族だったのである。しかし、この祖父の三男だった彼の父親は宮家が消滅したのちに生まれている。“元皇族”だったことは一度もないのだ。ましてや本人は“元皇族”などではありえない。

 もちろんそのことと、この男性、あるいは父親の人間的な価値とにはなんの関係もない。二人とも立派な日本国民であろう。しかし、そういう立場の人を軽々しく“元皇族”と称する一部マスコミの姿勢には、センセーショナリズムにもとづいた、売らんかなの態度が見え透いており、不真面目としか言いようがなかった。そこからは意味のある議論などは生まれようはずもないのである。

 案の定、最近、政府がおこなっている“女性宮家”についての“有識者”からのヒアリングの議事録などをみても、歴史的な事実を無視した首をかしげざるをえないような意見が散見される。また、“物知らず”の政治家たちのなかには、皇位継承問題などについて無責任な発言をするものもいるが、その結果、天皇や皇室にかかわる事柄が政治問題化されてしまうという、最悪の事態さえ起こりかねなくなっている。明治の“南北朝正閏論”騒動、昭和の“天皇機関説”や“統帥権干犯”問題の際の愚かな政治の介入がどれだけ悪い結果を招いたか、謙虚に歴史に学ぶべきであろう。

 本書において伏見宮の歴史をみていこうとするのは、昭和の敗戦後に消滅したこの宮家や、その“分家”の宮家についての事実を、なるべく多くの人びとに知ってもらいたいからである。それは天皇という存在が日本に必要ないと考える向きにはよけいなお節介かもしれないが、そうでない人びとにとっては、なにがしかの意味があることはまちがいない。事実にもとづいた、冷静で有意義な議論の展開こそが、なによりも必要なのである。