今年は、公務と重なりなかなかお招きいただく卒業式に出られなかったのですが、なんと娘の卒業式に出席してしまいました。

 

 自分の大学の卒業式は単位が足りなくて出られず、内山くんと後から卒業証書をもらいに行きました。

 

 なので、「大学」なるものの卒業式は今回が人生初でした。

 

 そもそも、娘の卒業式に出るつもりというのは全くなく、確か中学、高校、大学ともに出ていませんし、息子も昨年大学入学でしたが、親が行くことはありえない話だと思っており、当然入学式は出ていません。息子の卒業式は、小学、中学は出ましたが(これ町会長として来賓でした(笑))、あとはねえ~という感じ。

 

 だいたい、そういうものは自分基準ですから、自分が高校の時は入学も卒業も親なぞきませんでしたし、大学なんてもっと。(笑)。

 

 で、行かないもんだと。

 

 が、今回はお天気が悪く、かわいそうだということと、「入場制限がどうもなさそうだ」ということでしたので。

 

 前回の大学の卒業式は、会場が取れなかったとかで、横浜のパシフィコだったがために、保護者1名限定卒業式でした。

 

 今回は東京国際フォーラムでした。

 

 「理事長の話が長いんだよね。」と事前に娘から聞いていたのですが、いやいや、学長も理事長も非常に良いお話でした。

 

 学生時代は、「長い話」でも後からでも思い出せば良いのかなという感じで聞いておりました。

 

 改めて中学校から修士課程まで12年間お世話になった学校ですが、預けてよかったなと。親としては満足でありました。

 

 今度は社会人として再び世話になって、さらにはまた勉強もしたいようで、それはそれで頑張ってもらえればと思います。

 

 

 歴史的にも由緒ある学校で、幾つかの学校行事を拝見しても、非常にしっかりしており、よかったなと思います。

 

 がしかし、一点だけ気になったのは、国立大学で話題になっている、国旗掲揚の問題。残念ながら娘の大学も国旗は掲揚されておりませんでした。

 

 私は、高等教育機関の使命ってあるものだと思っていて、

 

 中教審の答申は、非常に素晴らしく、これを是非とも実践すべきだと思っております。

 

新時代における高等教育機関の在り方

 

 特に、次の部分については、娘の大学の学長も式辞で関連することを述べておりました。

 

(ア)大学の自律性と公共性

○ 大学とは、学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とするものであり、その活動を十全に保障するため、伝統的に一定の自主性・自律性が承認されていることが基本的な特質である。また、このような大学における教育の課程の修了に係る知識・能力の証明として授与されるものが学位である。

○ 社会が発展していくためには、その基盤として、新しい知識を創造するとともに高度に活用する高い専門性を持った人材を育成することが不可欠である。人類の長い経験と叡智の中で、これを最も良く担う社会的な存在として確立されてきたものが大学にほかならない。大学は、社会と関連性を保ちつつも一定の距離を置いた自主的・自律的な存在として、教育と学術研究を通じて社会全体の共通基盤の形成に寄与してきたのである。

○ 今後の知識基盤社会において、我が国が伝統的な文化を継承しつつ国際的な競争力を持って持続的に発展するためには、知的創造を担い社会全体の共通基盤を形成するという大学の公共的役割が極めて重要であり、大学は、その設置形態のいかんを問わず、大学としての社会的責任を深く自覚することが必要である。

○ これからの知識基盤社会において求められる人材は、大学のみならず高等専門学校、専門学校、さらには企業内教育等の社会教育においても育成することが期待される。しかし、こうした多様な機関による人材育成は、社会全体の共通基盤の形成という大学の役割を土台としてこそ最も効果的に行われるものであり、社会にとっての大学の重要性を一層高めるものと考えられる。この意味でも、大学においては特に「出口管理」の強化が重要である。

 

 ということです。国旗の掲揚。

 

 なんでしないんですかね?

 

 私立大学と言っても、国の教育行政に大きくコミットしていて、財政的な支援も多額でもあります。

 

 国あっての教育のような気がしますけどねえ~。