だいぶ前の記事ですが、共感できる部分が多く、引用及びコメントをさせていただきたいと思います。
 なぜ、この記事に興味を持ち、引用させていただきたいと思ったか?記事のテーマは「責任」なのですが、実はこのようなブログを書くと確実に「お前が言うか」という人が2人います。我が会派代表とコミュニケーショントレーニングの先生です。
 会派代表と同じ先生にお世話になってそれぞれ別々に勉強をしているのですが、代表は、「『責任』は自分にあります」と常日頃からおっしゃっています。しかし、私はまだその域に達していません。先般も先生を含め、役所の関係者の方と食事を共にしたのですが、私がまだ訓練が足りていないというか、実践できていないということでした。まあ、簡単に言うと、最低の人間でクズですね、私は。自分で何事も責任を取っていないということです。でも、多いんですね。「あいつはダメだ」、「こいつもダメだ」ってな話から始まって…様々な事象においても。
 さて、以下の記事をお読みください。 
産経WESTより
http://www.sankei.com/west/news/141110/wst1411100006-n1.html

2014.11.10 09:20

マクドナルド社長会見「日本では落第点」 
 
 企業の謝罪、命運左右する“プレゼンテーション” 土下座は逆効果も 不祥事が発覚した企業が開く謝罪会見は、会社にとって将来を左右させかねない「プレゼンテーション」ともいえる。言葉の使い方いかんで、世間の理解を得られる場合もあれば、かえって傷口を広げてしまうこともある。
 「悪意を持った数人の従業員がやったことだ。われわれはだまされた」
 中国・上海の食肉加工会社で7月、期限切れ鶏肉の使用が発覚した日本マクドナルドホールディングス。カナダ出身の女性社長、サラ・カサノバ(49)はこう訴えた。「お客さまに心配をかけ、深くおわびする」と謝罪したものの、食肉加工会社を「絶対に許せない」と述べ、批判する姿のほうが印象に残った。 企業向け教育研修などを行うICT教育研修研究所(東京)所長、茂木康有(55)は「マクドナルドに非はなく、同じ被害者だという認識を示したかったのではないか。謝罪内容は欧米では及第点だが、日本では落第点。謝罪の仕方に日本と欧米の文化の違いがよく表れている」。日本人は謝罪の言葉が前面に出なければ「誠意がない」と受け取りがちだからだ。
 「ファストフードの雄」は現在も上場以来最大という業績低迷に苦しむ。消費者には、日本人が古来、美徳とした「潔さ」とは異なる、ひとごとのような態度に見えたのかもしれない。土下座会見、冷めた見方も 「安心・安全」の言葉がちまたにあふれるように、日本の消費者はとりわけ「食の安全」に敏感といわれる。にもかかわらず、平成19~20年に食材の産地偽装や食べ残しの料理の使い回しが明るみに出た大阪の高級料亭「船場吉兆」の女将(おかみ)(当時)は、そんな日本人気質を読み違え、「食べ残しではなく、手つかずの残された料理」と筋違いの弁解をして、その後廃業した。
 謝罪会見はメディアを通じてすぐさま世間に吟味され、会社の存亡にかかわる事態になりかねない。「言葉でごまかし、切り抜けることは考えない方がいい。信頼を保つには素直に非を認め謝罪する以外にない」。日本大教授の福田充(45)=危機管理論=はこう指摘する。
 最近は会見の様子も動画でネット配信されるだけに言葉だけでなく、謝罪者のこまやかなしぐさも注視されるようになった。
 しぐさの極端なものに「土下座」がある。もともと身分の高い人に平伏することを意味したが、いつしか謝罪の気持ちを表すようになったとされる。福島第1原発事故では東京電力の社長(当時)が避難住民を前にひれ伏し、TBS系ドラマ「半沢直樹」では土下座の場面が話題を呼んだ。
 だが、謝罪される側が究極の謝意として受け取るとは限らない。むしろ、パフォーマンスと受け取られ、逆効果になることもある。
 5人が死亡した23年の焼肉酒家えびす集団食中毒事件では、経営会社の社長が報道陣の前で額をつけて謝罪したものの、世間の反応は冷ややかだった。コミュニケーション力の劣化、謝罪で露呈 「土下座ブーム」の背景には、謝罪のやり方が分からないという社会の不安感があるのか。実際、謝罪方法を解説したさまざまなハウツー本が出回っている。
 謝罪術評論家で弁護士の間川清(36)は「コミュニケーション能力が足りない現代特有の問題がある。謝罪会見がうまくいかないのは会社内部の論理を優先し、相手がどう受け取るのかという想像力が欠如しているからだ」と話す。 不信感を抱いたり、怒ったりしている消費者を相手に謝罪する行為は、対等な関係でコミュニケーションを取る以上に高い能力が求められる。人との言葉のつながりが希薄になった昨今、コミュニケーション力の弱さは謝罪の場面で如実に出てくる。  
 =敬称略 (大竹直樹)


 さて、船橋市で「開発事業者が文化財としての価値のある文化財包蔵地の開発が強引に進められた。けしからん。しかし、文化財保護法の限界だ。私たちは最大限の努力をした」という説明がありました。
 今定例会でも、島田議員、神田議員が直接的に質問を、佐藤重雄議員がそのことを含め船橋市の用地買収の姿勢についての一般質問がそれぞれにありました。特に佐藤重雄議員の持論の展開は政党は違えども、まったく考えを同じにするものでした。一部映像に問題が生じましたが、http://funabashi.gijiroku.com/g07_Video_View.asp?SrchID=1515をご覧ください。(会議録は次回定例会開会頃に完成します。)佐藤議員は、「やるだけのことをしっかりとやったのか?」という問いでした。それらをきちんとしないで、法の限界のせいにしたり、業者のせいにしていないかということです。
 そして、コミュニケーショントレーニングの先生の言葉に戻りましょう。先生の言葉を借りると、「責任」は、「長」である松戸市長の責任であり、その前の段階で様々な作業を精一杯やったと「自」「他」ともに認めるところまででなければ、それぞれの部門の「長」の責任であり、「機関」の長である者の責任は逃れられないのです。今回の文化財の問題は、「船橋市の財産である」、「船橋市民の貴重な財産である」といえば言うほど、その行政の長が解決できなかったのならば、それはその「長」の責任であることをしっかりと受け止めなければいけません。島田議員の発言はそういうことを含んで言っていますね。私が特にこの記事で強調したいことは、下線部です。この下線部がまさに全てを語っています。船橋市役所にはありとあらゆる事業に関して、「市役所内部の論理を優先し、相手がどう受け取るのかという想像力が欠如している」のです。それが「長」以下、気づけていない。
 先般、食事を共にさせていただいた市役所関係の方は完璧に理解していましたね。頑張っていただきたいと思います。