どうもです。

 

昨日は話を先に進ませようと思って書き始めたのに、

結局ルネッサンスの話になってしまい、

全然先に進めませんでした。笑

 

 

 

 

もう一度仕切り直します。

 

 

 

 

 

 

 

昨日の冒頭の文章から、

もう一度お読みください。

 

 

 

 

思考、感情、本能を平均的に活性化させることによって、

全く違う地平でものごとが見えてくる。

人間の持つキャパシティを完全に発揮することができる

ということを書いてきまして、

 

現代においては

思考を鍛えるメソッドはいくらでもあるので、

 

今ではその価値がほぼ忘れられている、

「感情と本能を鍛える」意味と、その方法論について

一応書き終えたところでした。

 

 

 

 

 

思考に関しては、

現代において最も重要視されている。

というよりはむしろ、

人間の機能は

ほぼ、それしかないと信じられているにも関わらず、

 

 

実は、論理的に物事を見て、判断をし、

自らの力で考えることを奨励されているわけではありません。

 

よね?

 

 

 

 

これは教育現場から始まって、

それがそのまま人生を決定してしまうわけですが、

 

戦後の日本の教育には、

記憶以外のことはほぼ何もありません。

 

 

 

 

記憶することが思考の機能を使うことだと

おそらくは、ほとんどの人が勘違いしているのではないかと思われるほどに、

記憶以外の何かをさせられた覚えがないのが、

戦後に教育を受けて来た人の感覚ではないでしょうか。

 

 

 

 

ここで注意しておきたいのは、

「ただ記憶をする」ということは、

「記憶すべき情報は、そもそも完全に正しい」

という前提の上でしか成り立たないことであります。

 

 

 

 

そして、世の中の事実を見ますと、

完全に正しいことなど、絶対に存在していないのです。

 

 

 

科学で証明されたことが正しいと

言われ続けて教育を受けた人々は、

 

 

5年ごとに、最新の科学の「真実」はまるまる変わってしまうことにすら気付けません。

 

 

そして、科学の「真実」が変わるのは、大学の権力構造が変わる時だけですが、

どちらにしても、

現在、科学で「正しい」とされていることは、

 

50年後には、絶対にナンセンスなのです。

 

 

 

にも関わらず、その都度、科学で正しいとされていることを

絶対に「真実」だと信じてしまうのは、

 

 

記憶による教育を受けて来た結果として、

その思考形態の外側で物事を見ることができなくなっているということではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

このように、思考についてでさえ

現状は、あまり芳しいとは言えないものですが、

 

 

 

ただ、思考についてなら、

このように話せば、

 

それでは論理的に考えるとはどういうことか、

ということは、すぐにわかってはいただける筈ですし、

 

自らの力で考えるということは、

論理的な比較をすることによって、

自分で結論を出すことだ、ということはわかってもらえる筈です。

 

 

 

 

なので、「記憶している限りは自分で思考してはいない」

ということにだけ注意をはらえば、

実は、思考する力を発展させることは、

現代人にとって、(他の2つと比べれば)

それほど難しいことではない筈だと思われます。

 

 

 

 

 

これを前提にした上で、

次回から、思考と他の2つの機能のバランスについて

書いてみようと思います。

 

 

 

またよろしくお願いいたします。