あしや温故知新VOL  200回記念  我が家のファミリーヒストリー!曽祖父 長谷角之助

 

 下の写真は角之助です。母の遺品整理をしていて発見したものです。  

  

昔見たことがありましたし、叔父たちからは角之助は教育熱心な人で私塾(寺子屋)を開き、子供たちへの読み書きや青年たちに土木技術などを教えていたと聞いていた。


 この歌がその一端を表しているのかもしれません。


 しかし、漁業網元の角之助がどうして土木技術だったんだろう・・・・。


 ファミリーヒストリーですね。父にちゃんと聞いておけばよかった。





父の残した資料に「出身地 兵庫県武庫郡本庄村青木」大正年代後期に、兵庫県武庫郡精道村打出浜へ移住した。

 角之助の職業は青木時代、漁獲された魚類の問屋「卸や」をしていた。このため昭和40年頃まで、よく「問屋福」といわれていた。

芦屋の打出に移住した理由は、漁業を営むためと幅広い商いが出来る思惑があったようです。


 主とした職業は、漁業をやっていたとばかり思っていましたが、実は貸し船業と舟艇管理業を営んでいた。長谷角之助翁と呼ばれるように曾祖父は漁業をやっていたのではなく魚類の加工品の製造や卸売りをやって財を得たようです。

 当初から本庄村と芦屋村との合併を望んでいた人だったようでそのために私財を寄付しています。亡くなったのはこの掛軸が完成して4年後(大正4年)です。

 

 芦屋市漁業協同組合を設立したのは角之助の長男、長谷福蔵ということになるのですから、世襲した訳ではなく、祖父は漁師の道を選んだということになります。


 角之助は福蔵に幼い頃から勉学を教え、帳簿や漁獲量の統計などを組合長自らやっていたと聞きました。

 

 昭和初期の時代の芦屋市の漁業統計分析が完璧なのも理解できるエピソードです。


 それで、浜に加工場があったのか・・・。普通なら魚を捕る者と加工する者は別々なのに両方やっていたし、今でいうならレンタル漁船や貸しボートなどを手広くやっていたのも角之助から始まったんだ。

 

  貸し舟と言っても300トンクラスのかなりの大きさで神戸港湾内で荷役や鉄鋼石などに自身がやるのではなく、必要かとする会社に貸したりしていたようで、漁師が必要な漁船は数十船になったようです。


 本庄村、芦屋で獲れた魚を残らず買い取る問屋として、会社を経営して市場に一括して納入し、漁師さんたちは、喜ばれた人だったそうで、漁業組合組織が作られたと言うことになります。

 今はここまでしか判りません。

 

 解読は神戸市の株式会社聚珍社さんにお願いしましたが、

【解読筆写】

 天徳を戴て確かなり

 

 景色能道ハ急きこそすれ

 

 すなほなる正しき道そ

 

 いそかす人のゆく道

 

 此度の往還道とゆふのハな

 

 石よりかたい末代のみち

 

          時于大正元年冬日応需録

 

          長谷角之助翁歌  子昴

 

【読み下し】

 

(てん)(とく)を戴(いただ)きて確かなり  

 

景色の道は急ぎこそすれ  

 

すなほなる正しき道ぞ  

 

いそがず人のゆく道

 

()の度()びの往還道(おうかんどう)とゆふのはな  

 

石よりかたい末代(まつだい)のみち。

 

  時に大正元年冬日 応需録(おうじゅろく)

 

  長谷角之助翁歌  子昴(画家) 印

 

 角之助ひいおじいちゃんは立派な人だったんだということが分かりました。

 





 こんな自画像を画家に書いてもらって、歌まであるんですから・・・・。

 

【天徳】①天の徳。万物をはぐくむ自然のはたらき。②天子の徳。

 

【往還道】人などが行き来するための道。主要な道路。街道。

【末代】 死んでからのちの世。後世。

【応需】要求に応じること。

【子昴】逍子昴

 


【参考文献】

本庄村史 資料館資料

芦屋市史 昭和31年 本編

芦屋市史 昭和46年 本編

芦屋郷土誌 細川道草 昭和38

芦屋の里 島 之夫 昭和4