あしや温故知新VOL122 町名の由来No1 六麓荘町

 

  六麓荘町という町名は「風光明媚な六甲山の麓の自然豊かな地に『東洋一の別荘地』建設を!」からつけられました。

「六甲山麓別荘地」これが六麓荘の名前の由来です。(あしや温故知新VOL70.71

 元々、芦屋市は大阪財界人の別荘地として宅地開発されていました。1928年(昭和3)、

 森本喜太郎氏が発起人で豪商・内藤為三郎ら大阪財界人を中心とする人々の出資により、町を開発・管理するための「株式会社六麓荘」が設立されました。


 土地は国有林の払い下げを受け、開発にあたってのモデルは、香港島の白人居住専用地区だと言われています。

まだ海外渡航が一般的ではなく不便だった時代に、数度にわたり香港島へ渡航しています。そして英国人の町づくり、都市計画の手法を取り入れたのです。


 当初開発は197区画、数万坪にのぼる大規模な宅地造成を行ったことから始まりました。

さて、この住宅街に学校があります。この学校の創立の経緯は1936年(昭和11年)から1938年(昭和13年)に、六麓荘の開発構想には元々なかった「芦屋女子学園」が設立されています。

 

 この学園ができる以前には、スケート場や遊園地の他、テニスコート、運動場などのレジャー施設、あるいは、豪華な事務所や茶店が存在していました。


 また、苦楽園に住んでいた掘抜製帽社長・掘抜義太郎が「東洋一のホテルをここに建てる」という発想のもと、芦屋市街が一望できる場所に「芦屋国際ホテル」という7階建てのホテルを1939年(昭和14年)106に客室12部屋、収容人員18名で開業しました。

 

 国際ホテルのパンフレットには、「秀峰六甲山麓、名高い健康住宅地、天下の芦屋の頂角、六麓荘の山稜に、紺碧漂う茅の海を一眸に収めて、清澄の空気、高雅の環境、絶佳の眺望を誇る当国際ホテルは、省線芦屋駅よりバスにて15分間の意外なる近距離であります」と記載されています。

  

 順調な経営が進んでいましたが、太平洋戦争が勃発してホテル営業が停止され、権利は松下電器産業(現 パナソニック)に移るとともに、松下電工(現パナソニック電工)の研究施設として使用されました。

 

敗戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占用。その後、芦屋女学校の手に渡って、校舎の一部になり、証言によると大学職員住宅としても使用されていたようです。

 街路の舗装や電力、電話線の地下埋設の無電柱化の街ですが、すべて民間企業が着手したものなのです。

 町名は先に述べた通りですが、小字名の剣谷は花崗岩が風化してできた山のことです。

周辺には古墳や大阪城の刻印石が出土されています。

 

参照

昭和38年芦屋郷土誌 細川道草編集

平成9年芦屋市文化振興財団 あしや子ども風土記6集