久しぶりにグミの新cm、月見Mcに桜子を見る。相撲取りのぷにぷにcm はドイツの孫にも受けている。安子の兄貴や新宿野戦病院の警官のほか浦島やってた俳優さん。3太郎cm はバージョンが広がりすぎ、有名人掛け過ぎでコスト嵩んだか見なくなって久しい。au・UQ(KDDIと言うか昔の国際電信電話公社!!)の店舗が減って「昔の煙草屋さん」感覚で一寸した携帯操作トラブルの相談先が無くなった。流石ドコモは「何処にも」有る。昨年迄、そのトイメンには何時も有ったauなのに。コスト省減努力は歴然に。FIFAサッカー欧州選手権のスポンサーは中国系数社と欧州展開スーパーであった。続いた五輪も同じなのかと懸念したが此方は旧来の企業が名を連ねていた。
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国際電話。と言えば、オーストリアへ初赴任した1984年秋移行、実家へ手紙より手軽な方法として電話を月に一回程度していた。当時、日本向け直接ダイヤルはなく、一度ウィーンの電話局へ電話し、自分の番号と相手側番号をドイツ語で伝え、その後小一時間待って接続電話が来ると言う前時代の交換手頼みの通話であった。代わりに欧州内は国番号を付ければ掛ける事が出来た。ドイツに(0049)英国に(0044)イタリア(0039)殆ど各国事務所の代表番号を覚え、誰某さんお願いと各国語で言ったは良いが相手が居ないで折り返し電話して欲しいとまで言えなかったのは前回かきました。時は過ぎ97-98年頃は、欧州統括部署に籍を置き日本始め欧州各国と毎日頻繁に電話する事となり米国(経由)コールバックシステムでの通話に移行した。オンラインは上司に限られ、売上データをフィアゼンからディスク郵送から「業務データ
」伝送に使っていたモデムModemで回線接続のEメールはデスクトップで行われていた。
あの特別な音は其以前のファックスFaximil / Fernkopieで回線開通サインの甲高いピーと合わせ20世紀と言う「時代」の最後っ屁であった。


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上記は仏民謡Frere Jacques の各国版歌詞である。横向き写真でごめんなさい。独でBruder Jakob.. schläfst du noch/英 Are you sleeping... Brother John.が楽譜の歌詞だったのだが、写真撮るのを忘れた。此れは何を隠そう幼稚園児に配られた聖マルティヌス11/11提灯行列の歌を中心の子供向け歌本にあったもの。
孫達が行ってる幼稚園にはアフリカ系アジア系欧州外国からの子供達がいる。
Tag der offenen Tür 保護者参観日直後に食文化紹介の小さな祭りが有った。( 娘は日本食からスナック類お煎餅他を持って行った。) 
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もうすぐ帰独カウントダウンと言う事で浜町からGoWest、淡路町(小川町)から水道橋白山通り沿いに柔道着買った店を覗いて神保町・小川町へと古本屋対岸沿いに歩いて◯亀うどん大盛りを食べて戻る。かつてのマック東京2号店はそう言えば此処らだったかと汗ばみながら帰った。アッツクッテ、昨年MLBでヌートバー景気(胡椒摺り)が有ったかの合羽橋への足伸ばしは後日引き伸ばし。

各局半年経って新番組ドラマ開始迄の時間枠埋めが目立つ。テレ朝でヒット曲のランキングを見た。矢張り日本を離れてた頃の若手歌手・グループがピンと来ない。何故か深川が誇る歌姫が無かった、ヒュルリー・ヒュルリヤラと燕、懐かしい台湾の歌姫を数曲ランクリストに見て落ち着いた。あゝそう言えば、朝市のおっカァもいたナ。かおるちゃん遅くなって御免ねと銀髪の彼も見れたし、此れでいいか。
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ドジャースの空色野球帽をネットで買っては大谷選手の本塁打・盗塁50-50のチョットだけサポート感を味わっている。11年前親父が早朝散歩後NHK BSを付けてはダルビッシュ有を応援してた事等思い出しながら暑い日差し避けと同時に軽く話し掛ける。もうすぐ彼岸。台風14号よ僕の好きな数字(14)に免じて残暑を持ってって欲しい。とか言ってる内に中秋の名月のニュースを新聞に見た。
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そォ言えば、数日前JR秋葉原から(都)新宿線岩本町へ行きすがら和泉橋から神田川と御茶ノ水方面の写真を撮ろうと見るとあのラーメン橋と左斜め神田方面へ丸ノ内線の赤い車両走行見える筈が水平線の様に新幹線がヒョロッと隠して行った。レトロ感を同じアングルで比較アップされてたネット写真を添付します。
幸い、昨日小川町(淡路町)から御茶ノ水・本郷へ向かう時にカラクリは解ったが、昨年春夏といた時には気が付かなかった。(美人と同様、懐かしい景色は二度見三度見して置くべきである。)
因みに、僕はオーストリア時代「第三の男」で有名なPraterプラーター遊園地のRiesenrad回覧車との(自撮)写真も撮って無いし、ウィーン少年合唱団がミサで歌うのを直に聴くことも無かった。プラハ・モスクワに主張しても「出張」故写真をパシャパシャ撮らなかったし従業員と集合写真も撮っていない。可愛かったオーストリア事務所のアシスタント(年齢も感じもESC優勝時の歌手Nicoleに似てた照れ)や下宿の叔母さんとも一緒の写真は無い。脳裏に焼き付いてるばかりである。僕が海外に出てから大量の未完成プラモデルと小中高卒業写真もゴッソリと処分されていた。中途見合に帰った3年後を除いて日本出張で帰る迄粗10年の不在だからしょうがない。ヤッコ(恭子)との保育園での集合写真や折り紙を貼った工作アルバムも全部「瞼の◯◯」である。実家処分の時に顔の映った普通写真は集合の物は破り捨て、個々の物は郵送その他でドイツに移動した。自称暴走族(オートバイで週末走り回るグループの類)だったと言う母さんの若かりし頃、同じグループにいた親父のポマードベッタリ(リーゼント)類は箱に、自分の「満一歳」「ピッカピカの1年生」は孫達が同時期を迎えるので部屋の机上にクリアファイル入れで目に付く様に置いてある。
徒然書いていて10日近く掛かってしまった。
まァ今回は此れ迄、ご機嫌よう
Soweit für heute. Auf Wiedersehen .
逐: so far today's lesson. see you again.
(Auf Wiederhören 、sehenでなくhören お耳に掛かる、と言うのがラジオ講座の終わりのアナウンスだった。此れは電話でも同じ)
千春の故郷へ電話「じゃ又」はチュスTschüssと(auf) Wiederhören と涙の混じった複雑な映像訳になるだろう、、