高畑勲監督が亡くなって

追悼番組として

「火垂るの墓」が放映されました。

 

 

この映画ができたのは

1980年代の終わり頃なので、

今まで何度も

テレビ放映されました。

 

なので、

6回くらい観ているかもしれません。

 

 

今回、私の周囲には

辛過ぎて観ることが

できないという方も多かったのですが、

私は全部最後まで観ました。

 

それは、

どうしてかわかりませんが、

必ず観るという

使命のようなものを

感じるからです。

 

同じ映画を

何度も観ることは

この映画以外にはありませんけれど。

 

 

でも観る度に

気づきがあります。

 

今回の気づき2つを

お伝えします。

 

 

ひとつ

主人公清太のモノローグから始まる

冒頭のシーン。

 

「僕は

昭和20年9月20日夜死んだ」

 

三宮辺りの駅の構内

柱に寄りかかって座っている

瀕死の清太が

力つきて倒れます。

 

終戦直後は

そのような浮浪児や餓死者は

たくさんいたので、

駅で亡くなる人も多かったのです。

 

うちはずっと東京ですが、

上野駅にも浮浪児がたくさんいたと

生前母から聞いたことがあります。

 

それは

あまりに日常的に

いつも目にする光景だったので

道行く人々は

だんだん慣れてしまったようでした。

 

 

「火垂るの墓」では

駅員が迷惑そうに見て、

遺体からドロップの缶を拾い上げます。

 

ゴミにしか見えないそれを

原っぱに投げると

ふたが空いて無数の蛍が飛び立ちます。

そして

中から骨のかけらが転げ落ちる。

 

そこから始まって

物語の時間が遡っていきます。

 

空襲で焼け出された

清太と妹の節子が

2人で生きようとしながらも

数カ月後に死んで行きます。

 

妹が死に、

遺体を荼毘に伏して。

先の骨はそれです。

 

パラドックスのように

2人が元気な頃が浮かび上がります。

 

山の上から

平和に華やかに繁栄した

神戸の町の夜景が見えます。

 

こんなシーンがあったのかと

改めて気づいた。

 

ここは、

もしかしたら

脚本を書いて監督をした高畑さんが

一番伝えたかったことではないか。

 

あの頃、戦争があった。

一般の人も

多勢亡くなった。

 

 

今、

私たちは

こんなに豊かな暮らしを享受して

生きている。

 

………

 

ということを。

 

もう一つ。

 

誰かが指摘するまで

気づきませんでした。

 

この映画のタイトルは

「蛍の墓」ではなくて

「火垂るの墓」です。

 

 

当て字にしても

「火垂る」は、めずらしい。

原作の野坂昭如さんらしいひねり?

 

と、深く考えていませんでした。

 

しかし、

 

映画のイメージ画像を見てわかりました。

 

 

夜の風景に

たくさんの蛍が飛んで

妹の節子が喜んでいます。

映画でも蛍と出会うシーンが何度か出てきます。

翌朝たくさんの蛍の死骸を埋めるシーンも出てきます。

 

よく見ると

空の上に

B29の影が見えます。

 

神戸大空襲のこの爆撃で

多勢が亡くなって

この子たちも

家や母をなくします。

 

そして、

蛍の光とともに

爆撃の炎がたくさん落ちています。

 

つまり、

「爆撃の火」が

「落ちてくる」のを

「垂れる」と表現して

「火垂る」になったのです。

 

これは、

野坂昭如さんの原体験から生まれた話。

爆撃がどれほど恐ろしく

いろいろなものを奪って行ったか。

 

 

野坂さんの中に

生涯消すことのできない

悲しみの記憶としてこれがあったのです。

 

 

私たちは

そういう時代に生まれなかった幸運に

感謝したい。

 

 

でも

私には気になることばかり。

 

この映画が放映されたら必ず観ること

沖縄のひめゆりのこと

フィリピンの島で戦死した

会ったこのない伯父のこと

シベリアで抑留されて

亡くなった兵隊さんたちのこと…

 

 

太平洋戦争で起きたことが

こういうことがなぜだかとても気になります。

 

 

過去世にその答えがあるかもしれない。

そんなことを思うこのごろです。