碧血碑 (2)  門燈、柳川翁寿碑 | ドンティーのブログ

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そよ風のように

 
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碧血碑 門燈
(正面刻字)獻燈

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(向かって左)
函館市長坂本森一

 
 
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(向かって右)
昭和十一年 宮本武之助
 
 
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柳川熊吉(やながわ くまきち、文政8年(1825年) - 大正2年(1913年))は、幕末の侠客。道産子ヤクザの鼻祖とされる。江戸浅草出身。柳川鍋を商売としていたので姓を柳川とした。
 
浅草料亭の息子に生まれる。新門辰五郎が幅を利かせていた浅草で顔役となり、幕臣などとも交流があったと言われる。安政3年(1856年)、五稜郭築城のため自ら人員を率いて蝦夷地へ渡り築城動員を補佐。その後、箱館で江戸流柳川鍋を商売として生活していたが、箱館戦争が勃発し、敗北して賊軍とされた旧幕府軍の遺体が埋葬を許されずに箱館市中に放置されると言う惨状に堪えられず、実行寺住職・松尾日隆ら寺々や有志と協力して遺体を回収・埋葬して回った。明治政府に咎めを受けたものの、結果的に熊吉は処罰される事はなかった。
後に旧幕府軍の遺体を改葬して箱館山に碧血碑を建立。榎本武揚ら箱館戦争の生き残りの者達と交流を持った。碧血碑の管理を務め、大正2年に死去。享年89。熊吉の功績を讃える記念碑が碧血碑のすぐ傍に建てられている。
 
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 柳川熊吉は、安政3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造の際には労働者の供給に貢献した。
 明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍の処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。
 明治4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」が建てられた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、その行いを後世に伝えるため、ここに寿碑を建てた。
 碑文の訓読は、「前逓信大臣・正三位・勲一等・伯爵林董篆額す。翁の名は熊吉、姓は野村にして、後に故有りて柳川と改む。江戸の人なり。少(わか)くして侠客の新門辰五郎に属し、夙(つと)に名有り。始めて北海に来るや、函館奉行堀織部正の知る所と為り、侠名愈(いよ)いよ顕われり。戊辰之役、東軍の来りて函館に拠(よ)るや、巨帥榎本武揚君の親信を受く。蓋(けだ)し曩(さき)に榎本君年十六、七、奉行織部君の家に在りし時、面識有るを以ての故なり。後東軍の五稜郭に敗るるや、遺骸野に横たわり、復之を顧る者無し。翁深く之を惻(いた)み、当山十六世日隆師と相謀り、収めて之れを谷地頭の西丘に葬り、而して歳時焉(これ)を祀(まつ)れり。後に有志の者、石を建て題して碧血碑と曰う。翁は今茲(ことし)齢八十八、猶矍鑠(かくしゃく)たり。因りて翁の義挙を不朽に伝えんと欲し、今其の梗概(こうがい)を記し、諸(これ)を血碑の傍らに建つと云う。」(『道南の碑』)で、碑の裏面には建設賛成人の氏名が彫られている。