1569年(永禄十二年)1月、三好三人衆は、足利義昭の仮御所、京の本圀寺を襲撃した。
前年の12月に、信長が、岐阜に引き上げた後、本圀寺の警護は、明智光秀を始めとする、近江国・若狭国の国衆のみとなり、完全に手薄な状態であった。
1月5日、三好三人衆は、間隙を突いて、本圀寺を襲撃したが、信長に美濃国を追われた、斎藤龍興が、三好三人衆に加勢していた。
足利義昭を警護する、明智光秀及び、若狭国衆の山県源内、宇野弥七等は、堅固と言えない、本國寺に立て篭った。
三好勢の先陣、薬師寺貞春の軍勢が、寺域への進入を試みるが、山県源内、宇野弥七等の奮戦によって、何度となく、阻まれた。
結局、この日は、本國寺の陥落に、至らぬまま、日暮れになったため、三好勢は、兵を収めて、翌日の戦闘に備えた。
1月5日の襲撃が、成功していれば、足利義昭は、兄の十三代将軍、義輝と、同じ運命を辿ったかもしれない。
しかし、山県源内、宇野弥七等の奮戦により、一日を耐えたことで、義昭及び、室町幕府の運命は、大きく、変わったと言える。
翌日の1月6日、細川藤孝、三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重等、本圀寺襲撃の急報を聞いた、畿内各地の義昭側が、本圀寺に駆け付けた。
三好三人衆は、不利を悟ると、退却を試みるが、追撃された。
義昭側の軍勢と、三好三人衆の軍勢は、桂川河畔で、合戦に及んだが、義昭側の勝利に終わり、三好三人衆側は、客将の小笠原信定などが、討死している。
兵数は、三好三人衆の1万に対して、義昭側は、2千と圧倒的不利に関わらず、勝利したのである。
信長は、同日の1月6日、岐阜、本國寺襲撃の報告を受けると、大雪に関わらず、即座に出立した。そして、本来は、三日の行程を、わずか、二日で、走破すると、1月8日には、十騎程度の供を連れたのみで、本國寺に到着した。
異常な寒さ及び、急な出立によって、信長の配下の陣夫などには、数人の凍死者がいたと言われる。
信長は、本圀寺に入ると、戦功のあった、池田正秀等を賞した後、本國寺防衛の脆弱性を危惧して、過去に義輝が、本拠地とした、烏丸中御門第、別名、旧二条城を整備した。
烏丸中御門第の建設には、本國寺の建築物を解体、再度、組み立て、用いたと言われる。
義昭の烏丸中御門第は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど、防御機能を格段に充実させたため、洛中の平城と呼べる、大規模な城郭風であった。
義昭の許には、室町幕府に代々、奉公衆として仕えていた者、旧守護家などの高い家柄の者が、続々と、参勤したため、義昭の念願であった、室町幕府の再興が、現実化した。
柴田勝家は、本圀寺の変の後、信長の命によって、上洛し、同年の4月上旬までの間、明智光秀、木下秀吉、丹羽長秀、中川重政と共に、京及び、畿内の行政を担当している。
信長の親族と思われる、重政を除けば、勝家、長秀、秀吉、光秀は、本能寺の変の直前、信長の晩年の五人の宿老で、残りの一人は、滝川一益である。
信長の尾張統一戦、美濃攻めにおいて、重用されていたのは、森可成、佐久間信盛などの信長の譜代であったが、過去に、信行に仕えた、勝家、農民出身の秀吉、義昭の家臣の光秀などは、上洛戦の前後から、織田家の中核の家臣となるのである。
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