末路哀れは覚悟の前やで 〜『落語と私』(桂 米朝 著、ポプラ社)を読む〜 | 西宮・門戸厄神 はりねずみのハリー鍼灸院

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突然ですが、わたしが好きな名言の一つを。

「芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」

4代目桂米團治(1896-1951)が、弟子の3代目桂米朝(1925-)に語った言葉だそうです。

「芸人」とありますが、「鍼灸師」、「物書き」、もっと広げて「サービス業についているひと全般」に言えるでしょう。

4代目桂米團治師匠の言葉を思い出すたびーー特に最近ーー

覚悟とは真心のことではないか

と思います。
誠実なひとでないと、覚悟なんて決められません。

ところで冒頭の語録、実はウィキペディアの「桂米團治(4代目)」にも載っているのですが、その出典を見つけました。

『落語と私』(桂 米朝 著、ポプラ社)

でした。

 落語は現世肯定の芸であります。
 大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら、一日一日が無事にすぎて、なんとか子や孫が育って自分はとしよりになって、やがて死ぬんだ……それでいい……というような芸です。
 その基盤とするのはごく普通の「常識」、ごれであると思います。

 落語は、古典芸能のはしくれに入れてもらいましても、権威のある芸術性ゆたかな数々の伝統芸能と肩をならべるのは本当はいけないのだと思います。「わたしどもはそんな御大層なものではございません。ごくつまらないものなんです」という……。ちょっとキザな気どりに思われるかもしれませんが、本来そういう芸なのです。
 前にも、「落語は正面きって述べたてるものではない」と書きましたが、汗を流して大熱演する芸ではないのです。……実際は、汗を流して大熱演していても、根底の、そもそもが、「これは嘘ですよ。おどけばなしなんです。だまされたでしょう。アッハッハッハ」という姿勢のものなのです。
 芸人はどんなにえらくなっても、つまりは遊民(何の仕事もしないで暮らしている人)なのです。世の中の余裕ーーおあまりで生きているものです。ことに、落語というものは、「人を馬鹿にした芸」なのですから、洒落(しゃれ)が生命(いのち)なのです。
 わたしがむかし、師匠米団治から言われた言葉を最後に記します。
『芸人は、米一粒、釘(くぎ)一本もよう作らんくせに、酒が良(え)えの悪いのと言うて、好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へのお返しの途(みち)はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで』

(「エピローグ 言いたりないままに」224-225ページ)

落語の入門本としてこれ以上のものはないと思う名著ですが、
最後にお師匠さんの言葉を紹介する米朝師匠の、米團治師匠への敬愛の念に、心を打たれます。

機会があれば、ぜひ読んでみてください。

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