<Twitterからの覚書>

 

・自分は大腸を全摘していて昨年の9月にイレウスで入院した事がある。昨日(22日)八宝菜等繊維の多いものを食べた所為か、今日(23日)は便の出が良くなくイレウス特有の激痛が生じ嘔吐も3回位して、流石に病院行かないとダメかなと思ったが、ダメ元で臍の高さに紐を緩く巻いたら一眠りでき、起きたら激痛が治まっており便も出たので驚いた。
自分の感覚だが、痛みや吐き気などある場合、痛みのある部分から意識を遠ざけようとしたり、自分のボディイメージと実際の身体との乖離が大きくなったり、身体における意識や緊張が偏ったりする事があるように思うが、紐を巻いた事によって前述のようなものが緩衝されて身体と自分との一体感が意識せずとも身体の反応として戻ってくるように感じられ、そのお蔭かそれまでは吐き気と激痛で寝付けずに唸っていたが眠りに入り易くなったようだった。
ひもトレってこんなにも凄いのかと体感してた以上の効果に驚いたけど、自分も二進も三進もいかなくて賭けみたいに試しただけなので、こういう緊急の場合は他人にはやっぱり医療機関に行く事を勧めるだろうと思う。なので、ひもトレでイレウスが回復する可能性もあるけど試みる場合は個人の責任でお願いいたします。

 

・目に映る世界を知ろうとすると自分の外の空間をイメージする事を迫られ、視覚映像に対して概念的判断によって認識しなくてはならない。この関心は抱いた時点で既に純粋な感覚ではなく、世界として捉えているものにも意識の産物が編み込まれており現実でもないし、そこでは視覚やイメージの性質である体感の抜けた幾何学的な論理的構造が見出されるだけなので、それを世界の姿だとか真理の法則だとかと思ってしまい易いように思う。
物理学や数学を世界を支配する深淵な真理だと考える人もいるが、概念はどこまでいっても思考の産物であり、意識が作り出すものを現実と捉える事はラの音階は色彩だと語るようなものに僕には感じる。実際に音は波(視覚的イメージ)であると物理学は語ってしまってもいる。だから物理学や数学は僕にとっては単に形成され得る視覚的な解釈モデルや再現シミュレーション、または空間イメージの特徴でしかない。
僕にとって所与なるものは意識が解釈しようとしている以前の今感じている純粋な感覚しかない。意識がそれに判断や解釈や意図を加える際に、想定する客観的世界を持ち出して比較したり、その判断の論理性や有効性を評価する場合に懐疑の対象とする事ができ、その関係で誤謬であると判断する事が可能となる。感覚そのものに対しては懐疑や誤謬の対象とする事は不可能であり、感じてしまったという事が既にあるだけのように思う。
僕にとって最もリアリティのある現実は意識以前の純粋な感覚であり、それは身体が身体自身を感じる体感でもある。この身体感覚は、数学や物理学や幾何学、論理学等とは立ち位置が全く異なる為、一方の正しさを他方に持ち込むという事は有効範囲を逸脱する事になる。感覚世界には意識による照明は全く通用しないし、持ち込んでしまうと非現実になってしまうように思う。

 

・僕が何かをするというのは、結局の所、体感を通して自分にとってのしっくりくる感覚や違和感を探ったり、それらに耳を傾けたり、その感じ方が自分の純粋な感じ方かどうか、自然なものかどうかを確かめたりしているという事なんじゃないかなと思う。
自分を作ろうとしたり、こういう人物になろうとしたり、心を何らかの道徳や社会通念等で上書きしようとしたり、意識によって自分を納得させようとしたりする事をやめて、自分の純粋な感覚に耳を澄ましてそれに素直でいられるようにもしなっていけたなら、自分以外の何者にもなりたいとは思わないという思いが湧き、何人の評価なしに自分が好きと感じられるのではないかと思う。

 

<昨日の韓氏意拳教室からの覚書>

 

・昨日、小関先生の韓氏意拳教室に半年振り位に行ってみたけど、自分なりの普段のやり方とは違う体感があったので、それぞれ別々に取り組むのがいいかなと改めて思った。
その中で最も大事だと感じた事は、動くという概念が全く異なるという事で、普段の意識で動こうとする時は準備をして目的の動作をしようとし、動作を完了させるという過程を考えるが、意拳では僕の解釈では『「感じる、手探りする、応じられる準備体勢に入ろうかな』という意志の起りの起りのままでいつつ、その準備を前に進めたり始めてしまったりしないようにする事で、結果として、現象として身体が動いている状態になっている、というように捉えているように思った。つまり、結果や目的の為に準備から出発する動作ではなく、「よーい、ドン!」の「よーい」という準備に入っていく過程を動作として見做していて、この観点ではその準備すら完了する事がないようだ。
確かに、結果や目的の為に準備から出発する動作というのは意識が自分の動きや意思を自覚する為に動作に名前(動詞)を付けて、各動作の切り替えとなる節目を作り、意識によって動きに切れ目を作ってしまうので、自然な生命の運動・活動とは全く別種のものになってしまっている。
それから、準備体勢に入ろうかなという起こりのままそれを先に進めようとせずにいると、身体の内側が熱さを帯び、ブワァーと細かい泡の対流が全身に生じているかのような感覚を覚えたりもする。しかし準備を少しでも進めてしまうとピンと張った糸のような状態が途切れてしまうのでとても厳しく難しいとも感じた。
また、準備体勢に入ろうかなとする際に力を入れたり抜いたりする事も「やり始めてしまう事」になってしまうのでそれすらやらずにいるという視点や、感じようとする事においても準備に入ってからすると動きの自然さが損なわれるという点にはハッとさせられる思いがした。
おそらく意拳では活力や自由さ、対応力や感性、集中力、注意力、構造的強さが極まっている状態というのは、次の瞬間何が起こるか注意深く感覚に耳を澄まし、いつでもそれに応じて動けるように身体の準備をする事が完了するほんのちょっと手前の状態だと捉えているように僕は解釈した。