那須にいるときの毎朝のルーティン稽古【セビジャーナス】だが、ストレッチや筋トレ、その後ポールドブラをやって、1番~4番のセビを踊り、本番用の踊りの稽古に入る順番。

しかしこのところ、1番~4番どころか、パソ・デ・セビジャーナスばかり繰り返すようになってしまった。

 

 

 練習すればするほど、稽古すればするほど、沢山のことよりも「一つの動きをより洗練されたものに」と積み減らしに入ってきたお年頃なのでしょうか。

 パソ・デ・セビジャーナスだけやっていても、全く飽きないどころか、全く出来ていない自分が恥ずかしい。

のに、ライブではアレグリアスだのシギリージャを踊るこの矛盾さ笑い泣き

この調子でいくと仕舞に僕の自主練は、ポーズだけで動かなくなるのではないかと思う今日この頃。

 

 昔ヒヨコ先生から頂いたVHS、NHKでやっていた日本の伝統芸能の正月スペシャルの録画で、「動く錦絵」と称されていた【武原はん】のビデオが僕のバイブル的な動画で、兎に角常に動いて止まることないのに、それがずっと止まって見えるような舞踊なのです。

地唄舞という舞踊ジャンルですが、殊【武原はん】の舞は目が離せない、美しい絵画の連写のように進んで行きます。

こんな踊りが踊りたいと夢見る僕は、フラメンコ、いや洋舞とはかけ離れているのかもしれませんが、日本舞踊のお師匠さんのお言葉:

 

「舞踊のジャンルだの、国の文化だの関係ない!“踊る心”というものは万国共通なんだよ!!」

 

が常に僕の心の中に響いている。

それを未だ、ダンサーとして身体で実感できていない。

それを実感したいがために、日々稽古する。

 

何のためだろうか?

 

そう僕は、踊りを通して「自分の”生”の決着」をつけたい、のだと思う。

いわば「死」というものだが、いつ死ぬかわからないが、死という人生の決着を踊りと共につけたいのである照れ

 

とはいえ、どちらかというと「ナヨナヨ系」の僕だから、甘えが入ったり、怠惰になったり、飽きそうになったりもします。

どんなに自分に対して叱咤しても、ダメな時はダメな時もあります。

 

 これを乗り越えられれば、一流のダンサーになれるのだろうなぁ~と悔しい思いをしながらそれに負け、2~3ぐらいのダンサーをしています。

©近藤佳奈