敷設艦厳島は1929年12月に就役。
厳島は機雷敷設艦として建造されました。
機雷敷設艦は機雷を海中に敷設するための艦艇のこと。
第一次世界大戦後、国際連盟によって委任統治を託された
南洋諸島の権益を守るため、敵艦の侵入を防ぐ目的で
主要港湾に機雷敷設の必要に応じて建造された艦です。
五号機雷では500個が搭載可能でした。
また甲板には三年式14cm単装砲×3、
8cm単装高角砲×2が搭載されています。
陸奥記念館の14cm単装砲
第十七戦隊に所属し、
開戦当初からフィリピン攻略戦や蘭印作戦に参加。
同隊の八重山とともにサンベルナルジノ海峡と
スリガオ海峡への機雷敷設を行っています。
その後はダバオ、シンガポールを拠点とし、
東南アジア方面で機雷敷設や船団護衛任務に従事。
1944年8月24日、セレベス島北東端海域で、
B25の空襲を受けて被弾。
敷設艦若鷹に曳航されジャワ島に向け航行中、
ジャワ海中央海域で蘭所属の潜水艦
ズヴァードヴィッシュに発見され雷撃を受けます。
ズヴァードヴィッシュ
ズヴァードヴィッシュが放った5本の魚雷の内1本が厳島に命中。
これが致命傷となり厳島は沈んでいきました。
若鷹にも船首に魚雷1本が命中したが不発で助かっています。
若鷹は終戦まで生き残り、戦後復員船として
1947年10月まで従事。
厳島はその艦の性質上、敵艦と相まみえることは
ありませんでしたが、最期まで裏方の任務を
黙々とこなしてました。
彼らのような裏方がいてこそ、我軍は圧倒的兵力の
敵をものともせず懸命に戦うことが出来ました。
彼らの流した汗と涙に心から敬意を表したいものです。