それまで縁の下の筍の任務に邁進してきた敷設艦厳島は、1944年10月7日敵潜の雷撃で戦没!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

敷設艦厳島は1929年12月に就役。

 

厳島は機雷敷設艦として建造されました。

 

機雷敷設艦は機雷を海中に敷設するための艦艇のこと。

 

 

 

 

 

 

第一次世界大戦後、国際連盟によって委任統治を託された

 

南洋諸島の権益を守るため、敵艦の侵入を防ぐ目的で

 

主要港湾に機雷敷設の必要に応じて建造された艦です。

 

 

 

 

 

 

五号機雷では500個が搭載可能でした。

 

また甲板には三年式14cm単装砲×3、

   

8cm単装高角砲×2が搭載されています。

 

 

 

陸奥記念館の14cm単装砲

 

 

 

 

第十七戦隊に所属し、

 

開戦当初からフィリピン攻略戦や蘭印作戦に参加。

 

同隊の八重山とともにサンベルナルジノ海峡と

 

スリガオ海峡への機雷敷設を行っています。

 

 

 

 

 

 

 

その後はダバオ、シンガポールを拠点とし、

 

東南アジア方面で機雷敷設や船団護衛任務に従事。

 

 

 

1944年8月24日、セレベス島北東端海域で、

 

B25の空襲を受けて被弾。

 

 

 

 

 

 

敷設艦若鷹に曳航されジャワ島に向け航行中、

 

ジャワ海中央海域で蘭所属の潜水艦

 

ズヴァードヴィッシュに発見され雷撃を受けます。

 

 

 

ズヴァードヴィッシュ

 

 

 

ズヴァードヴィッシュが放った5本の魚雷の内1本が厳島に命中。

 

これが致命傷となり厳島は沈んでいきました。

 

若鷹にも船首に魚雷1本が命中したが不発で助かっています。

 

 

 

 

 

 

若鷹は終戦まで生き残り、戦後復員船として

 

1947年10月まで従事。

 

 

 

 

 

 

厳島はその艦の性質上、敵艦と相まみえることは

 

ありませんでしたが、最期まで裏方の任務を

 

黙々とこなしてました。

 

 

 

 

 

 

彼らのような裏方がいてこそ、我軍は圧倒的兵力の

 

敵をものともせず懸命に戦うことが出来ました。

 

彼らの流した汗と涙に心から敬意を表したいものです。

 

 

 

 

 

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