帝国海軍もメッチャ頑張って、太平洋全域で多くの敵艦を沈めてるゾ!!沖縄海域番外編の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

現在の鹿児島県南さつま市加世田に
 
昭和18年夏から19年末にかけて建設された
 
陸軍最後の特攻基地「万世飛行場」がありました。
 
この飛行場はわずか4ヶ月しか使われませんでした。
 
17歳の少年飛行兵を含め200人近い特攻隊員が
 
”祖国のため”を合言葉に、沖縄の空に飛び立っています。
 
 
 
 
 
 
1972年飛行場跡地の一角に
 
万世特攻慰霊碑「よろずよに」が建立され、
 
万世特攻平和祈念館が1993年に開館。
 
館内には、吹上浜から引き上げられた
 
日本に一機だけの「零式水上偵察機」や
 
死を間近にした特攻隊員たちが肉親たちに
 
残したメッセージや血書
 
遺品・遺影などが多数展示されています。
 
 
 
 
 
 
 
祈念館の外観は、
 
パイロットが生まれて初めて飛んだ
 
憧れの練習機「赤とんぼ」の複葉型を模し、
 
大屋根に平和を祈る合掌をシンボル化した
 
ユニークな「複葉合掌型」の形をしています
 

 

 

 
 
 
 
 
ここに一段と大きく引き伸ばされた
 
一枚の写真パネルが展示してあります。
 
 
 
 
 
 
前列左より、早川勉伍長、荒木幸雄伍長、千田孝正伍長。
 
後列左から、高橋要伍長、高橋峯好伍長。
 
 
 
『子犬を抱いた少年兵』と言う題で
 
一躍有名になりました。
 
 
子犬を抱いた少年兵荒木幸雄伍長は
 
群馬県桐生市出身で、
 
1943年陸軍の少年飛行兵に応募。
 
高倍率・最難関の筆記試験に合格して
 
大刀洗陸軍飛行学校生徒隊に入隊。
 
戦局の悪化に伴い1年の課程を半年で終了。
 
1944年の卒業時には最高栄誉とされる
 
陸軍航空総監賞を受賞しています。
 
5年早く生まれていれば、
 
彼はきっと熟練搭乗員として
 
各方面で活躍してたやろに。
 
 
 

 
 
 
第72振武隊として出撃予定日だった1945年5月26日、
 
出撃予定時刻の2時間前にあの写真が撮影されました。
 
しかしその日は出撃中止となり
 
翌5月27日、第72振武隊隊員は九九式襲撃機に搭乗。
 
万世飛行場を出撃後、沖縄本島中部に広がる
 
金武湾の東約50kmの位置で、
 
レーダーピケット駆逐艦ブレインに
 
突入したと推測されています。
 
 
根拠として、突入直前の第72振武隊の
 
九九式襲撃機の写真が残存しているため、
 
荒木伍長もこの駆逐艦を目標としたと考えられます。
 
 
ブレインは第72振武隊の突入によって
 
大破・炎上、荒木伍長も戦死しました。
 
享年17。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブレインには2機が突入した模様。
 
艦橋の一部と艦尾の上部構造を破壊したものの
 
残念ながら沈めるには至りませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
ブレインは慶良間列島に退避した後
 
本国に回航され、終戦まで復帰できませんでした。
 
 
 
九九式襲撃機が実践投入されたのは
 
1939年の支那事変の頃。
 
そのコンセプトは、超低空飛行し
 
森などの陰に隠れ敵地上部隊を急襲する戦法を主としました。
 
爆弾は200kg(12kg×12または50kg×4)まで搭載可能で
 
最高速度424km/h、航続距離1060km で
 
もともと大陸での使用を目的としてるため
 
艦船攻撃は想定外でした。
 
 
1945年になると基本設計の旧式化は否めず、
 
また敵の新鋭戦闘機に比べ相対的に
 
低馬力・低速になったため、
 
撃墜されることが多くなり損害が増大しています。
 
 
そやのにこの機に無理やり250kg爆弾を搭載させ
 
洋上航行の末敵艦に体当たりさせるなど
 
あまりに無茶やと思います。
 
(白菊や赤とんぼに比べれば、まだましやけど)
 
 
 
 
 
 
 

 

荒木幸雄伍長は出撃の前に遺書を残しています。
 
 
               最后の便り致します。
               其後御元気の事と思ひます
               幸雄も栄ある任務をおび
               本日出発致します。
               必ず大戦果を挙げます
               桜咲く九段で会う日を待って居ります
               どうぞ御身体を大切に
               弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら
 
 
 
 
万世特攻慰霊碑「よろずよに」には
 
 このような碑文が刻まれています。
 
 
 
 
1944年、
 
太平洋戦争の戦局はとみに悪化し、
 
すでに決定的段階を迎えんとしていた。
 
ここ加世田市吹上浜の地に、
 
戦勢転換の神機を期すべく地元民学徒ら
 
軍民一致の協力によって、本土防衛沖縄決戦の
 
基地萬世飛行場が建設された。
 
1945年3月28日より終戦に至るまで、
 
陸軍特別攻撃隊振武隊の諸隊、
 
飛行第66戦隊、飛行第55戦隊の若き勇士たちは、
 
祖国護持の礎たらんと、
 
この地より雲表の彼方へと飛び立った。
 
 一機また一機と。征きて帰らざる者あまた。
 
 或いは空中に散華。或いは自爆。壮絶にして悲絶。
 
 その殉国の至誠は鬼神もこれに哭するであろう。
 
終戦以来幾星霜、ここに祖国は、
 
その輝かしき復興をとげた。
 
  われら生き残りたる者と心ある人々は、
 
 英霊の魂魄(こんぱく)を鎮め、
 
その偉勲を讃えんがために、ここにこれを建立する。
 
 昭和47年(1972年)5月29日
 
 
 
万世・知覧と車で訪れたのは
 
かなり昔の事なので、
 
記憶が定かではありませんが
 
車で20~30分くらいの距離だったと思います。
 
 
 
 
 

 

知覧にお越しの際は
 
ぜひ万世特攻平和祈念館にも足を運んでみてください。
 
知覧ほど訪れる人もなくゆっくりと見学出来ますよ。
 
 
 
 
 
 
 
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