2014年1月16日、帝国陸軍最後の戦士小野田寛郎元陸軍少尉逝去!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

※Yahoo時代に載せた記事です。
 
先日横井氏の記事を載せた際ふと思い出したので、
 
若干加筆し再掲載してみました。
 
 
 
●2014年1月16日の記事から
 
 
 
昨今、この方を知らない世代も増えてきましたね。
 
 
 
 
 
 
 
小野田寛郎氏は、
 
大正11年3月現在の和歌山県海南市で生まれる。
 
1942年12月徴兵検査で陸軍に入隊。
 
その後、甲種幹部候補生に合格。
 
陸軍中野学校二俣分校入校、
 
主に遊撃戦の教育を受ける。
 
 
 
陸軍中野学校二俣分校とは、
 
遊撃戦(ゲリラ戦)要員の短期育成を
 
目的とした日本陸軍の教育機関。
 
現在の静岡県浜松市天竜区二俣町にあった。
 
 
 
 
 
 
小野田少尉は1944年12月初旬マニラに到着。
 
情報部別班班長で谷口義美少佐から、
 
第8師団(杉兵団)への配属を告げられ
 
ここでルバング島派遣を命じられます。
 
後日ティリック港に上陸、配属先の臨時第2中隊の
 
早川小隊と合流し遊撃戦の指導に当たります。
 
 
小野田少尉の任務は、

 

「ルバング島において対海空の監視と敵情の報告、

 

 
ならびに敵の上陸後における飛行場使用妨害(遊撃戦)」
 
現地に渡る前に上官から「玉砕はするな!」
 
「たとえ一人になっても何年でも残置諜者として任務を全うせよ!」
 
との命令を受けたため、戦後もジャングルに潜伏。
 
現地警察や米軍と100回以上の戦闘を行い、30人以上殺傷した。
 
 
 
 
 
 
一方、ルバング島潜伏の29年間に
 
終戦時に米軍の投降勧告を拒否し、
 
ジャングルに潜伏し続けた兵士は55名。
 
その後9月末までの投降者9名。
 
翌46年3月に39名が投降。
 
3月22日、米軍との交戦で3名戦死。
 
この時点で残留日本兵は 小野田少尉と島田庄一伍長、
 
小塚金七一等兵、そして赤津勇一一等兵の4名のみ。
 
 
1950年7月頃に赤津一等兵がフィリピン当局に投降。
 
帰国した赤津の証言でルバング島になお3名の
 
残留兵が生存していることが判明。
 
1952年初旬、第一回目の捜索隊がルバング島に
 
渡り捜索するも手掛かりなし。
 
1954年5月7日、島田庄一陸軍伍長比軍特殊連隊との銃撃戦で死亡。
 
 
 
 
 
 
1954年5月~6月にかけて約3週間、二回目の捜索を試みたが失敗。
 
1959年5月~12月に三~五回目の捜索隊を送り合計200日余り、
 
小野田・小塚両家の家族も捜索隊に加わり捜索を続けたが
 
発見できず。
 
 
 
 
 
 
1972年10月19日、小塚金七上等兵警察隊との銃撃戦で死亡。
 
これで二人の仲間を失う。
 
 
 
 
 

 

1974年に、単独で捜索活動に訪れた鈴木紀夫が

 

 
小野田元少尉と接触に成功。下山を促したが、
 
作戦解除命令がないことを理由に下山を拒否。
 
 
1974年3月、捜しにきた元上官らの任務解除命令を受け、
 
山を下りて投降後帰国した。
 
 
 
 
 
 
 
 
小野田少尉が受領した任務解除の命令文。
 
 
      一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
 
      二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
 
      三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ
 
        夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。
 
        已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ
 
        其指示ニ従フヘシ。
 
 
第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美
 
 
 
 
 
  
3月10日にかけ、
 
小野田少尉はフィリピン軍基地に向かい、
 
フィリピン軍司令官に軍刀を渡し降伏意思を示した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1974年3月12日帰国。
 
暫くして横井庄一氏との対談が企画されるが実現せず。
 
その後現代社会に馴染めずブラジル移住を果たす。
 
その一方で、
 
「祖国のため健全な日本人を育成したい」
 
とサバイバル塾『小野田自然塾』を開催。
 
 
 
 
 
 
また国内各地で精力的に講演を実施。
 
私も大学時代、
 
母校に講演に来られたのを拝聴いたしました。
 
 
 
 
 
 
 
 
  真珠湾攻撃の際甲標的に乗艇し攻撃に向かうが、艇が座礁し
 
敵の捕虜となり戦後帰国した酒巻和男元少尉と1977年に対談。
 
 
1996年、ルバング島再訪。
 
 
2014年1月16日、肺炎のため逝去。享年91歳。
 
 
 
 
謹んでご冥福をお祈りいたします。
 
 
 
 
 
ご存命のうちに一度お会いしたかったです・・・・。
 
 
 
 
 
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