腰掛けている梓紗の傍らにはアーカンソー医師だけになった。

歳の頃は40歳過ぎだろうか、白いものが髪に混じる白衣を着た男性だ。

梓紗の膝の具合を確かめ、丁寧に消毒を終えると軟膏のような薬を塗り、その上にガーゼを当て包帯を手際良く巻いていく。


「これで良し!跡は残らないから安心していいよ。」


「ありがとうございます。」


微笑みながら梓紗は丁寧に会釈する。


そんな梓紗を見るアーカンソー医師の瞳は複雑な色を浮かべていた。サッと表情を改めるとアーカンソー医師は言葉を選びながら静かに梓紗へ語り掛ける。


「御嬢さん、と呼んでも宜しいかな?

私がこれから行う質問は貴女には不快なものがあるかもしれない。もし辛くなった時は返事をする代わりに手を挙げても良いからね。」


「はい。」と答えたものの、前置きを聞いた梓紗はこれから始まる質問に怯え、思わず身構えてしまう。


「御嬢さん、貴女は盗賊達に囲まれていたそうだね?…言いづらいのだが、無体なことを強要されたりはなかったかな?」


「いいえ!…そ、そういう事態が……起こる前に助けて頂きましたから…大丈夫です。」


躊躇いをみせつつも、やはり、そこは医師である。ボカした表現を取ってはいるが、ズバリと問い質してくる。

梓紗は湧き上がる動揺を隠せず内心震えながらも、キッパリと否定の言葉を返した。


アーカンソー医師は眉毛を下げながら申し訳なさげに梓紗の震える手元を見ていた。再び、視線を正面に戻すと気遣うように言葉を重ねる。


「御嬢さんはつらかっただろうけれど不幸中の幸いだった。答えにくいことを聞いて御免ね、医師としては確認しなければならないんだ。

それから、今、気持ちはどんな感じかい?不安な気持ちが押し寄せてきたりはないかな?」


「少し思い出してしまったので…不安はあります。」


梓紗はありのままの気持ちを伝えた。


「そうか……辛いことを思い出させて御免ね。
不安な気持ちになると苦しくなってくる?」


「やはり…少し苦しい、です。

ですが、必要があって尋ねられていることだと思いますから……お気遣いありがとうございます。」


「御嬢さんはなかなかしっかりとした人柄のようだね。」


アーカンソー医師は梓紗の漆黒の瞳を真っ直ぐに見詰めた。その瞳は心の奥底をも見据えるような医師らしいものであった。

一見、穏やかながら些細な変化も見逃すまいとするアーカンソー医師の瞳の前に、梓紗も感情を隠すことなく向き合う。


「今回、何事か起こる前に助け出せたことは多大なる幸いだった。…けれどね、

これから暫く、もしかしたら長い期間に渡るかは断言できないのだけれど、気に掛けていかなければならないことがあるんだ。

今回の件を思い出すような機会が訪れた時に御嬢さんの身に起こり得ることを、予め伝えるつもりだ。心の準備を整え、落ち着いて聞いてほしい。

まず、今のように不安な気持ちが大きくなったり、時には泣いたり、呼吸が苦しくなることが症状として現れることがある。

そして御嬢さんの心の状態にもよるのだが…例えば、男性が大きな声をあげたり、御嬢さんの背後に男性が立つだけで怖いと感じることも起こり得るんだ。

その結果、男性自体を恐怖と捉えることになり、日常生活に支障をきたすことも十分考えられる。

結婚前の御嬢さんにとってはとても辛いことだよね……だからこそ、これだけは約束してくれないかな?なるべく無理はしないこと!」


「…はい、お約束致します。」


アーカンソー医師の発言内容は梓紗も日本にいた頃に知識としては理解していた。

ただ、実際に我が身に降りかかるとは考えておらず、アーカンソー医師に言われ初めて自らが陥るであろう危険性をハッキリと自覚したのである。


「僕は近衛騎士団付きの医師だ。
もし僕でよければ出来る限り相談にのるから、何かあった時は遠慮なく僕を頼って連絡をくれればいい。

勿論、団長や副団長にも、よく言い含めておくから安心してね。」


「ありがとうございます。多分ですけれど…近衛騎士団の皆様は大丈夫だと思うのです。とても紳士らしい方々ばかりですので。」


「そうかい?紳士とはいえ、彼らも男性だから近くにいると恐怖が湧くことがあるかもしれないよ?そこは大丈夫かな?」


アーカンソー医師の親切な申し出が有難く梓紗は感謝の気持ちでいっぱいになってしまった。そのせいか、近衛騎士団に関わる人間は信頼しても大丈夫なのではないか、と梓紗には思われたのだ。


「はい。団長様が一緒にいらしてくだされば、より安心できると思います。助けて頂いた、信頼できる御方ですので……。」


「そうだね。うんうん。それを聞いたら僕も安心できるかな。」


「大丈夫でしょうか?……その、一緒に居てほしいなどと願うことは…団長様のご迷惑になるのではないか、と思うと……心配になります。」


もじもじと口籠もる梓紗へアーカンソー医師は微笑みかけ、あっさり言い切る。


「心配は要らないよ。きっと団長も御嬢さんのことを人任せに出来ないだろうからね。」


「…えっ?」



先程チラリと見た限り、カイルがこの御嬢さんに想いを寄せているのは確実だろう。

去り際に見せた、真摯な想いに溢れた此方を射抜くような淡い水色の瞳は梓紗を傷付ける者は許さないと強く訴えていた。

まるで壊れそうなものを扱うように大事に接している姿とカイルの生真面目な性格を考え併せれば、例えカイルが恋心を抱いていたとしても安心して梓紗を任せることが出来るのではないか、と判断を下す。

どうやら、この御嬢さんも無意識ではあるが、カイルのことを信頼以上の想いで見ている節がある。

うまく事態が運べば、男性恐怖症に陥る前に幸せな結び付きが花開くかもしれない。


アーカンソー医師はそこまで考えると、漆黒の瞳を見開いて此方を不安げに窺う梓紗の手を取り、ぽんぽんと優しく触れながら再び語り掛ける。


「御嬢さんが団長を頼ることには僕も賛成だよ。彼は貴女のことをとても大切にしているからね。

ただ、もっと先の話になるけれど…付き合いが深まれば、御嬢さんでは伝えづらいことが出てくることもあるだろう。

そんな時は、僕を思い出してくれないかな?
僕に手伝えることがあれば協力は惜しまないつもりでいるからね。

今は、この言葉を頭の隅にでも留めておいてくれれば良い。これから忙しくなるだろうけれど、うっかり忘れたりしないようにね。」


「ありがとうございます。
はい。きちんと心に留めておきます。」




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「…この世界ではない?」


ーー梓紗は愕然とした。

目の前の景色が遠ざかり色を失う。外に向かっていた意識が梓紗の内側へと流れこんでいく。


頭の中に浮かんでいた幾つもの疑問や違和感がパズルのピースがカチリとあった時のようにピタリと嵌る。


整い過ぎるほどに美麗な騎士団の面々、現代では見られない騎士道を体現した行動、耳に馴染みのない国の名前、どこか古典のようにも響く騎士達の言い回し…


思い出したくはないが、盗賊のお頭だという男は自分のことを『姫さん』と呼んでいたこと。



ーーここは、海外では無い。

タイムトリップでも無い。


ここは、異世界なのだ。ーーーー


強烈な事実に辿り着き、梓紗は激しい衝撃に耐えるかの如く自分の手に添えられたカイルの手をぎゅっと掴む。


「団長様、つまり私はこちらの世界とは異なる世界から転移してきた、ということなのでしょうか。」


「この世界よりも遥かに文化の進んだ世界が存在し、大いなる何らかの力によって、この世界に現れる人々が存在すると聞き及んでいます。

その存在をこの世界では『渡り人』様とお呼びしております。」


カイルの言葉を聞き、梓紗は小説などで見聞きしていた地球とは異なる世界が実際にも存在し、その異世界に自分が飛び込んでしまったのだと確信する。


「我が国に『渡り人』様がいらしたのは初のこと故、私も詳しいことは申し上げられず申し訳ないのですが…。」


「いいえ、御説明ありがとうございます。」


気丈に微笑んでみせる梓紗だったが、カイルの手を掴む真珠色の手は小刻みに震えていた。

そんな梓紗の真珠色の手にカイルはもう一方の手も添え両手で包み込み、励ますようにぐっと力を籠めた。


カイルと梓紗の手元にチラと視線を流すと、ベルトランは梓紗の漆黒の瞳を見詰めてにっこりと微笑みかける。


「私の名はベルトラン・マルガリード。
『渡り人』様、美しい貴女のお名前をお聞かせ願いたい。」


華やかな美貌のベルトランが王族らしい気品ある態度で振舞うと歯の浮くような気障な台詞がピタリと合う。


「私は鈴原 梓紗といいます。」


「…スズハラアズサ?
随分と不思議な響きだね。」


ーーっ!!日本式の名前の並び
とは違う名前の並べ方なのだわ!


「あ!スズハラが家名で、アズサが名前になります。……ええと、アズサ・スズハラです。」


「そうか!アズサ…うん!発音しやすくて響きも良い。君にピッタリの可愛いらしい名前だ。」


にっこりと微笑むベルトランの褒め言葉に梓紗もホッとしたように笑み返す。


梓紗が微笑んでいるというのにカイルの胸は何故かチクリと痛む。

彼女の笑っている顔を見ていたい。けれども他の男に向けられる微笑みを見るのは不快なのだ。

まるで我儘な子供のような独占欲が急速に胸に湧き起こる。自分勝手な想いに直面してしまい、カイルは戸惑いを隠せない。


戸惑いに翳るカイルの耳にアーカンソー医師の声が届いた。


「団長、副団長。そろそろ『渡り人』様の治療を行いたいのですが。人払いをお願いします。」


「承知した、アーカンソー医師。
待たせてしまい申し訳ない。

皆、向こうまで下がるように!」


「「「「「はっ!」」」」」


居並ぶ騎士団の面々が一斉にその場を下がっていく。


「暫く時間を頂きますよ、団長。」


「了解した。アズサ殿を頼む。」


告げるカイルの淡い水色の瞳は真摯な想いに溢れ、アーカンソー医師の瞳を射抜くように強い意志を放っていた。




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「そうだ、カイル!お連れしたぞ。」


「ああ、ありがとう。ベルトラン。
アーカンソー医師も急にすまない。」


カイルの言葉にアーカンソー医師は穏やかな表情で頷き返した。


生真面目なカイルに遠慮なく軽口を叩くことが出来るのは副団長のベルトランだけである。

王族で副団長という立場ゆえではない。幼い頃から共に学んだ仲だからこそ、なのだ。


ベルトランとカイルの親しげな遣り取りを見ていたアーカンソー医師が、チラリと梓紗を見遣り静かに口を開く。


「団長と副団長の仲がよろしいのは結構だが、少し控えてくれると有難い。

……団長、彼女が『渡り人』様ですね?」


「ああ、そうだ。『渡り人』様は膝を怪我されている御様子。治療を頼む。」



半ば呆然としながら目の前を高速スピードで進んでいく会話を聞いていた梓紗にやっと口を差し挟む機会が巡ってきた。


「…あの、先程から皆さまが仰っている『渡り人』様とは………どうか説明の続きをお願い致します。」


「余計な邪魔が入ってしまい、
まだ説明が途中のままでしたね。」


「邪魔だと?…カイルは冷たいな。」


「だから、それが邪魔だと言うのだ!」


「はいはい!分かりました〜。」


「はいがひとつ多いぞ、ベルトラン。
暫くの間、黙っていてくれ。」


賑やかなベルトランとカイルの戯れあいをアーカンソー医師が咎めるような目で見ている。慌ててベルトランは口を噤んだ。


カイルは梓紗の真珠色の手を取り淡い水色の瞳を穏やかに緩めると、梓紗の気持ちを落ち着かせるようにコクリと頷いてみせた。


「混乱されておられる御様子でしたので、落ち着かれたら御説明するつもりでおりました。

お気持ちはもう大丈夫ですか?

難しいかもしれませんが、
出来るだけ心を鎮めお聞きください。


はっきりとお伺い致します。
貴女はこの世界の方ではありませんね?

その容姿、衣装などを見れば明らかなこと。」




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