こんばんは、Hareです。
具体的なことは書けずにどうしても抽象的になってしまうのですが、
きっと今しか書けない気がしたので、共有します。
「自分を責めない」こと、
とても難しく感じていました。
いや、難しく感じるというところまで行っておらず、
気付いたら自分を責めることが常態化していて、
自分を責めているということに気付いていなかったです。
場の力によって、
自愛ができるようになり、
喝采を浴びることが受け入れられるようになり、
解毒が進んできて、
より深いところが抉り出されたのでしょうか。
「自分を責めることで解決したふりをしていたけど、誰かにあなたは悪くないと言ってほしかった」
「辛いということを受け入れてほしかった」
ことが眠っていました。
過去に、深く傷ついたこと、身体と心がバラバラに張り裂けそうになったことがありました。
それに対して、
「相手も悪いけど、自分も悪い」
「お互い様」
「どちらがより悪いかなんて考えても仕方ないし、最終的な引き金は向こうが引いたにせよ、そこに至ったプロセスがあり、それは相互作用だからどちらが悪いということもない」
といった思考で自分を納得させ、
「つまり、気にしている自分が悪い。ムダ。」
という結論に至って封印し、
「もう解決済みだし、気にしていること自体が前を向けていないことを示してしまうので、誰にも相談しない」
「ましてやメンター、コーチ、ヒーラーには猶更見せられない」
と自分の中に閉じてしまっていました。
これは、
その心の傷を開いて、その深い変性意識に入ったうえで、
否定されてしまったら、もう立ち直れなくなるんじゃないか、
という恐怖によって防衛本能が働いていたのかもしれないと思っています。
自分が傷つきたくないだけで、
そのことによって相手のことを信頼せず、過小評価してしまっているエゴですが、
事実そうなっていました。
実際には、相手を選べば頭ごなしに一蹴されるわけもなく、適切なやりとりをしてもらえるわけですが、
「それはあなたが悪かった」
「そんなことを気にしているからダメなんだよ」
「ゴールがあればそういうのは関係ない」
という言葉を事実だとしてももらいたくないなという思いが頭をよぎり、
本当に悩んでいること以外の、二番目三番目に悩んでいることを相談する動きをしてしまっていました。
これも、毒で、
過去の権威者との経験を、投影してしまっているかと思います。
親であったり、教育機関で、
自分の悩みやつらい経験を受け入れてもらえなかったり、一蹴されたこと。
「そんなこと考えてる暇があるなら云々」
といった言葉が、心の低く奥底で鳴り響いてしまいます。
そのようなことを言う人は少数派であるにもかかわらず、です。
社会を色眼鏡で見てしまっています。
生き残るために必死だった戦争時代の毒が、社会に蔓延し、親経由で受け取ってしまっているというのが、
まといのばでの『毒になる親』の議論でした。
そして、毒が回った身では、殻が破れず、
地球の引力に引かれていてもそれ以上近づかない月のように、
核心に触れずにぐるぐる回り続けて人生が過ぎていくのでしょうか。
投影し続け、近づきたい人との人間関係を壊し続けながら。
僕の場合は今回、
有難いことに、
Rayサロンセラピストのいくこさんによるリアル施術の場で、
関係性と時が熟し、
ゴールから見て今であり、
場の力も加わり、
僕が認識している一番深いところにある辛い経験が引き出され、
その辛さ、孤独を理解してもらい、受容してもらいました。
自分で自分を責めることで、
自分が悪かったから因果応報で仕方なかったことなんだとごまかすことで、
「たいしたことないこと」
「誰にでも訪れるありふれた不幸」
として、小さく見よう、小さく見よう、としていました。
こんなのは大したことないんだと、言い聞かせていました。
とてもつらいことだと、認識するのが怖かったんだと思います。
自分がその重さに耐えられずに壊れてしまうのではないかと……そう恐れているからです。
涙は浄化である、ということを再認識しました。
ちなみに、施術の前に別の話題で涙についてのやり取りがメッセージ上でもあり、
「涙は浄化でもあるので、思いっきり泣いてしまうことも必要かと」
ということに対して、
「もしかして、辛い時って泣いてもいいのか!」
という気付きがありました。
「一人で泣ける場所なんてない(泣いているところを発見されるとまずい)」と引きずったままスコトーマになっていました。
でも家ではうまく泣けませんでした。
話を戻します。
受け入れられてもらえると、
自分を責める理由がなくなりました。
もっとも心の奥にある傷口をごまかすためのコーティングだったためです。
受け入れられて、
自分を責める理由がなくなった時、
大きな安心もありましたが、
途方に暮れるような感覚も去来しました。
自分を責めることで傷つくことを避けるというパターンが、
沁みついていて、
喪失感を覚えているようです。
すべての変化は寂しさをともなう。私たちが捨ててゆくものは私たちの一部なのだ(アナトール・フランス)
いみじくも行動経済学が示したように、われわれは得ることの喜びよりも失うことの痛みのほうが大きいのです。
自分が持っているものはゴミであったとしても、手放したくなく、大きなチャンスと小さなゴミを天秤にかけて、ついゴミを選んでしまったりします。
見知らぬ天使よりも、見知った悪魔を選ぶ、などとも言います。
ゴミや悪魔や不幸や痛みや無知を手放すのが何よりも辛いのです。
カーネマンたちはそれを損失回避性と呼びました。
(まといのばブログより)
寂しさによって、「自分を責める」アルゴリズムにホメオスタシスがフィードバックループを作ったら元の木阿弥ですから、
周囲の力を借り、自分でも「自分を責めない自分」に入れ替えていく作業に専念していきます。
「自分を責めない」
どうして自分を責めるんですか?
他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。(アインシュタイン)
また、解毒が進んだときはいつもそうですが、
特に今回は、何かに駆り立てられることもなく、焦りもなく、強い嬉しさやポジティブさもなく、
フラットめになっています。
少し『普通』に近づいたのかもと思います。
まといのばからいくつか引用します。
情動は長続きしないのです。
怒りは長続きせず(喜びも長続きせず)、意志力や報酬系の刺激は上限があります。
もっと淡々と、もっと普通にやって、普通に成功する道があるのです。
(まといのばブログより)
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
いまは、ただの回復ではなく、すごい到達点への回復の途上にいるらしいです。
今日は、
かつては理想を共有して夢を追い求めた仲間たちと袂を分かち、
明日は、
何かぴんときている出会いがあります。
未来から見てどういう整合性で今が見えているのか、皆目見当もつきませんが、
T理論の『全ては必然』に従います。
例えば、会社の上司
『お前はこのままでいいと思っているのか!!』
売り上げなどのことを上司はいっているのでしょうけれども、これを未来の私が上司を通して言っていると考えてもいいわけです。
すると、
『お前はこのままでいいと思っているのか!!』
その通りではないですかね。
本当にそうだな、きっちり考えて、しっかり人生を生きないといけない、と捉えられるなら未来の私がいっている言葉として聞こえてきます。
突然、上司がすごいいい人に思えてきます😄
さまざまなものや人を通して未来の私のメッセージはやってきています。
そしてそれは、今の私にとってはとても不快な言葉として認識されてしまうものでもあります。
(~~~)
全部必要なんです。
一見、負に見えるものや、無駄に感じること、嫌な気分などもそう解釈しているだけで、本当はすべて必要なものに囲まれていることに気づきます。
目を開き、心を開き、自然(じねん)や宇宙のシステムを信じられるなら、それらはすべて必要だから起こっていることが見えてきます。
すべては最善、すべては必然、というDr,Tの言葉が含蓄をもって感じられるはずです。
(半農ヒーラーいちさんのブログより引用)
また一歩解毒が進んだ身として、
必要な人には
「自分を責めないで」
と。
言語でも非言語でも、直接的か間接的かに関わらず、書き換わるまで、水が入れ替わるまで、伝え続けます。
打ち明けてもらえるまで、待ち続けます。
そのような場がこの世にあり続けられるように、場を転がしていきます。
これからもよろしくお願いいたします![]()
Hare
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